入れ物がない、両手で受ける(尾崎放哉)について

 

仏典や聖書に読みふけっていた頃、「入れ物がない、両手で受ける」(尾崎放哉)という句に出会いました。私は一瞬、ホームレスのような男を思い浮かべ、お雑炊のような物を隣家から頂いたけれども、容れる物がない。しかし、何ら躊躇(ためら)うことなく、両掌で受け、そのまま食した、という図を思い浮かべました。
 当たらずとも遠からずと、私は思いますが、ともあれ、放哉さんはその心を自覚して、俳句にしたのでした。何故なら、芸術作品は自然に生まれることも多いですが、少なくとも自作を発表することは自覚無しには出来ませんから。・・・・少なくとも、放哉さんは自作を自分の生き方の、或る意味での(あらわ)れとして創り、発表したのでした。
 この句を私は、零落した生活者が施しを受ける様を突き放すように詠むことで、自分の位置と相手の位置を明確に意識し、しかし、卑屈にならず、依って読む者の心を人間存在の根源の平等さを感じ取れるように仕向けているように思われます。

勿論、放哉さんにそのような意図があったかは知りません。しかし、「入れ物がない」と言いながら、間髪入れず、次の瞬間、「両掌で受ける」としたところに放哉さんの凜とした覚悟を感じるとともに、そのことで、人と人が実は経済的な理由で、その人格まで規定されることは、元々、何の意味も持たないということを感じるのです。

このことは現在の社会でも通じるでしょう。結局、経済的成功を人間の人生の成功とし、さらに通常の場合、経済的成功者を少なくとも表向きは是とすることは恰も世の倣いとして定着しているように思われます。

かつて、「必敗の数を数えて生き延びる」と詠んだ私の俳句はそのことを示しています。

優れた詩人であった私の友人Kはいつも「必敗、必敗」と、口癖のように言っていました。彼は優れた詩人でしたが、彼の詩は経済的成功者の前では無力でした。彼はいつも、縁戚関係が列席する華やかな冠婚葬祭の宴の中では「自分は小さくなっているのだよ」と言っていました。何でも、親戚にお金持ちが大勢いて、冠婚葬祭では彼らが豪華な差し入れをし、皆から感謝されるのを(ほぞ)を噛む思いで見ていたそうです。

彼が自分の天分を発揮し、「山之口獏賞」まで受賞しながら、結局、その賞は役に立たなかったのです。彼は「獏賞」のことを「爆笑だよ」と自嘲気味に話していました。

結局、彼は五十歳にも満たずに亡くなりましたが、彼の遺したアルテュール・ランボーを思わせる詩は今でも多くの人を魅了し、影響を与えています。その意味では放哉さんをも思わせますが、彼は生きている折りにはやはり、「必敗の数を数えて」生きていたのです。

言葉は心に影響を与えますが、現世では金という直接的な利便性がものを言います。

世間は直截で目に見える物を有難がります。それは致し方のないことです。

従って、彼(友人K)や放哉さんは哀れな者です。私もやや哀れな者です。引かれ者の小唄という言葉もありますが、ここは放哉さんに倣って「入れ物がない、両手で受ける」という覚悟を実践したいものです。

さて、出来るものやら。……自らを疑いますが、しかし、続けねばなりません。心を描出することに取りつかれ、イエス・キリストを証しすることに取りつかれた人間は鞭で打たれようとも、ガンになろうとも、右手が動き、脳が活動する間はそれを続けるのです。それは(やまい)のようですが、いや、はっきり言って病ですが、この業病(ごうびょう)は治らないのです。

ですから、経済的貧困がもし来たら、「入れ物がない、両手で受ける」の精神に倣って、お隣さんから、施し物が来たとき、間髪入れず、ハハッとお辞儀をして、「ありがとうございます」と赤子のように無垢な心でお礼を言って、素直に頂こうかと思うのです。

はて、ほんとに出来ますやら ?

 

爪、切った指が十本ある(尾崎放哉について)

 

放哉は孤独の淵から、風景を見た。

 ここから波音聞こえぬほどの海の蒼さの

 海の蒼さが静けさを醸し出すほどの音を出すだろうか。蒼さは色であり、色が音を出さないのは言うまでもない。しかし、放哉は海の蒼さの中に音を視た。
 あまりに蒼いので、海は音を立てることすら知らないと感じたのだ。しかし、それは放哉の心だったのか?

 花火が上がる空の方が町だよ

 放哉は出窓に座って、花火が上がる空の方が町だと指を差して、告げた。つまり、《向こうは町だが、ここは寂しい荒れ寺だ》と告げたのだ。いや、それは放哉が告げたのではない。放哉の心が告げているのだ。つまり、この句は花火がテーマなのではない。放哉の心がテーマなのである。

放哉は読み手を花火の方に向けさせておいて、実は自分の心を詠っているのだが、それは技術ではない。放哉の孤高の心から出た自然な詠嘆なのだ。

その結果、読み手は「花火を詠んだ歌であるにも拘わらず、孤独な放哉の心を読み取る」のだ。

 咳をしても一人

 ガラーンとした何もない部屋に放哉は居た。ふと、咳をした。
 咳をした後で、ふっと周りを見渡した。誰も居なかった。
 放哉はその情景を詠んだ。
 ー咳をしても一人ー
 それだけである。何とも寂しい情景である。しかし、この孤高は体験した者でしか分からないかも知れない。
 或る人はこの句を読んで、大笑いした。
 ーこんなに笑ったことはないーと言った。
 ー放哉さんって、噺家(はなしか)だったんですかーと、再び笑い転げた。

私はポカーンと口を開け、それから、うつ向いて、黙ってしまった。

 爪、切った指が十本ある

 放哉は爪を切った指をしみじみ眺めて、「十本ある」と、ふと思った。それだけで、意味があるとは思わなかった。しかし、不思議だと思った。「なるほど、十本あるのは当たり前のことだ」と思ったのだが、それにしても、不思議だった。何故、とは問わなかった。ともあれ、不思議だった。それだけのことだ。
 ところで、私はこの句から、当たり前のことを当たり前と思い込まない習性を学んだ。それは元より、私に身についたことだが、それでも足りないことが分かった。当たり前とは最大公約数のことである。最大公約数がいつでも正しいとは限らない。その最大公約数が案外、間違っていることもある。イエスの時代、最大公約数はユダヤ教だった。そのユダヤ教をイエスは(くつがえ)した。

 

追記=教会で、よく思うことですが、「教えていただくことに、ただ素直に従うことが従順(●●)」と考えている信者が多いように思います。

そうでしょうか?(香川)