堕落論(坂口安吾)について

 

太宰と安吾

 

太宰治がいくらイエス・キリストに自分をなぞらえ、その像を自分に二重写しにし、作品のエピローグに聖書の御言葉を掲げても、私には太宰は似非(えせ)キリスト者にしか見えませんでした。それはひょっとすると、太宰も承知かも知れませんが、しかし、太宰がキリストを意識した文学者であることは幾多の文芸評論家が指摘したことでした。  

しかし、太宰には疑似イエス・キリスト足り得るには致命的な欠陥がありました。それは彼が稀代のナルシストであり、そして作品の魅力が図らずもそれに依っているという、誠に皮肉な性質を帯びていることに起因していました。

おおよそ、ナルシストでありながら、疑似的とは言え、救い主(のよう)でもあり得るというのはキリギリスでありながら、ゴキブリでもあり得るより、さらに不可能だと私には思われます。(言うべくもないですが、ナルシズムは自己愛であり、自己愛はキリストから最も遠いからです)。

さて、坂口安吾は太宰に比べると、小説は下手くそですが、より深く人間を暗黒の淵まで凝視(みつ)め続けた人でした。

 

堕落論と聖書

 

彼の「堕落論」はあらゆるメンタリティー(感傷、抒情、自己愛、自意識過剰、傲慢、自己憐憫等)を排した、(つよ)い者こそ、人間の内面の奥底を凝視(みつ)め続けられることを証明した作品でした。彼は次のように言います。

「大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう。この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが、先ず人間の復活の第一の条件だ。(中略)道義退廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって、天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落として、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか」。

まるで、聖書を読んでいるような印象を私は受けます。いや、聖書とは違いますが、律法から脱け出し、装飾のない、真っ(さら)な心を取り戻し、それを拠り所にし、復活の第一条件として、たとえ地獄の道(ヴィアドロローサ)を歩むことがあっても、それを耐え忍んで人間再生への道(神の国)へと突き進もうではないかと言っているように思えるのです。

 

堕落(罪)を凝視(みつ)め、再生へと至る

 

この場合、大事なのは赤裸々な姿を突きとめ見つめることなのですが、その結果、人間は自分の見苦しい、世にも(すさ)んだ凄惨で無慈悲な、よって真の姿を視ることになります。そしてその姿を視るためには堕落(●●)()必要(●●)(罪を見つめることが必要)だと言っているのです。

彼は堕落することを通して、人間の真の姿(実相)について、こう語ります。

「堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるに過ぎないけれども、堕落の持つ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち、堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見捨てられ、父母にまで見捨てられ、ただ、自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて、平然として死んで行く。だが、堕落者は常にそこからはみ出して、ただ一人、曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦に額ずくのも、この曠野の一人行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、虚しく地獄を一人さ迷うにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない。悲しい哉(かな)、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある」。

私はどうしてもここに(部分的ですが)イエスの影を見てしまいます。つまり、「他の人々に見捨てられ、父母にまで見捨てられ、ただ、自らに頼る以外に術のない宿命を帯びて」おり、「善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて、平然として死んで行く(この件りは律法主義者そのもの)」けれども、「ただ一人、曠野を歩いて行き」、「孤独という通路は神に通じる道」であって、「この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、虚しく地獄を一人さ迷うにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない」ということなのです。

何万、何億の堕落者(罪人)は我々であって、天国に至り得なかったけれども、イエスは自らの宿命として、靭い信念を持ち、それを果たしたのです。(所謂、神学的に言えば、神の子の宿命として、イエスは自覚を持ち、すでに予定調和的な死を意識していたのかも知れません)。

些かこじつけめいているかも知れませんが、さらには安吾がイエスを想定しながら書いたわけではないと思いますが、人間の実相(罪)を極め抜き、思い定め、凝視(みつ)め続けることこそ、人間の救いへの道だと安吾が表現していることに変わりはありません。

つまり、安吾は堕落(●●)()()()()()()凝視(●●)()()絶望(●●)()()()()してこそ(●●●●)()希望(●●)への(●●)()()()えて(●●)()()と説いているのです。それは「堕落論」の一環したテーマであると思われます。

 

堕落(罪を凝視めること)は制度(キリスト教)の母胎

 

次の項で、安吾は人間の限界を指し示し、柔らかな、甘い、安吾にしては多少やさしい眼差しを人間に向けます。

「我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。《人は無限に堕ちきれるほど、堅牢な精神に恵まれていない》。何物かカラクリにたよって、落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず、最もきびしく見つめることが必要なだけだ」。

「カラクリをつくり、そのカラクリをくずし」とは律法が出来た後、長い()ばかりの(●●●●)()(律法の時代)を経て、「カラクリを崩した(律法を崩した)」イエスの時代を彷彿とさせないでしょうか。そして、「人間はすすむ」のであり、「堕落(罪を凝視めること)は制度(キリスト教)の母胎(であって)、そのせつない人間の実相(罪そのもの)を我々は先ず、最もきびしく見つめることが必要なだけだ」ということなのだと思うのです。

以上、安吾の「堕落論」について図らずも聖書を連想してしまい、些かこじつけめいた論を展開してまいりましたが、当たらずとも遠からずと思うのです。

最後に改めて、安吾の絶唱を聴いてみましょう。

―堕落という真実の母胎によって、始めて人間が誕生したのだ―

堕落という言葉を罪に置き換え、「始めて人間が誕生したのだ」という言葉を復活という言葉に置き換えると、キリスト教という言葉が聴こえて来ないでしょうか。少なくとも、参考にする価値はあると思います。曽野綾子氏が「私はこの頃、悪について書きたくなった」と発言しているのも、あまりにも(ただの)お利口さんになったキリスト教徒に対するアンチテーゼと私には聞こえるのですが、どうでしょうか?

 

追記=本田哲郎神父が「良い子症候群に陥っていた」」と自らを自省し、現在、神父の身のまま、釜ヶ崎で活動を行っているのも、参考にしていいいでしょう。(2020年、10月に同志社大学で行われた氏の講演で、小原克弘教授も賛同の意を表し、「キリスト教会(界)全体がそのような状況に陥っているのではないか?」と指摘しているのも、カトリック、プロテスタントを問わず、キリスト教徒全員が自省の念を深めていかなければならない点ではないでしょうか?)。