宗教と文学(香川浩彦)

 

⑨広場の思想、吉本隆明氏

             

 この四、五年、連如の評価が活発に行なわれている。
 連如というのは親鶯を宗祖に持つ浄土真宗の僧だが、未だにその評価は別れている。その中で、評論家の吉本隆明氏(2012年3月没)の指摘している点は実に興味深い。吉本氏は「連如は親鶯を通俗化した。彼の立場は未来に生きる内実を持っていない」とし、「生、死、往生について、親鸞が考え抜いた思想は浄土など信じない普通の人々にも分かり、現代にもそのまま通用する。浄土を実体化し、念仏を唱えて死んだら、そこに行けるという連如の主張は浄土真宗の信者にしか伝わらない」とし、さらに「あらゆる思想《広場》へ出なければならない。連如の考え方では教団は大きくなり、信者は増えたとしても、入るのも出るのも自由という《広場》へは行けない。壮大な寺も仏像もいらない、弟子一人も持たないと言った親鶯の思想なら行ける」として、浄土真宗の弟子獲得に功績のあった連如の手腕すら否定的にとらえている。
 吉本氏のこの論を聞くと、私はキリスト教徒として、そのままこの論が我々キリスト教徒にも当てはまると考え、赤面の念を禁じ得ない。
 吉本氏は「連如は親鶯を通俗化した」と言っているが、確かに深い他力思想の親鶯をたとえ信者の立場に立ったにしても、「念仏さえ唱えれば、浄土に行ける」とした連如の思想と行動は非難されて然るべきものだろう。むろん、それが宗教を大衆化したとはいっても、その大衆が親鶯の他力本願の教えをそうした簡略なものと受け取り、信仰をいかにもたやすい安楽なものと考えるのはどうかと思われる。
 さらに吉本氏が連如の思想を「未来(ということは現代)に生きる内実を持っていない」とし、その理由を先に述べた「浄土真宗の信者にしか伝わらない」としている点は非常に注目される点である。そうして、その吉本氏の考えが「あらゆる思想は(現代ではもはや)《広場》へ出なければならない」にもかかわらず、連如の「信者にしか伝わらない」という教えでは無理だという点も極めて示唆的である。

《広場》というのは、言ってみれば、あらゆる宗派にとらわれない、グローバルな、宗教というものがその宗派の信者の中でしか意味を持ち得ないのではなく、あらゆる宗教、あらゆる思想、信条、あらゆる人種、国家間の間で意味を持ち得、そうして、意味を持ち得ないまでも討議されなくてはならぬ、いわゆる自由な広場というほどの意味であろう。そして、それは忘れてならないのは、そうした広揚が人間の自由を確保する、いわば人間の尊厳にとって最も大事なものだということである。吉本氏はその自由の大事さを言っているのである。そうして、このことがいわゆるキリスト教までも現代ではほとんどキリストの意向を反映していないと指摘されるキリスト教世界の現状にも警告を発しているという点である。

連如の主張が「浄土真宗の信者にしか伝わらない」のと同様、キリスト教の思想(教え)もまたキリスト教徒にしか伝わらない。そして、キリスト教徒にとって悲惨なのは、その吉本氏の言う《広場》を待ち得ず、相変わらずカトリック、プロテスタントを始めとする宗派がいがみ合っているか、或いはいがみ合わないまでも、交流を持ち得ないことによって、ほとんど理解し合う機会を得ていないということなのである。(エキュメニズム・教会統一運動の逼塞)。

その意味で、吉本氏の言う「広場の思想」は広く現代の宗教、及び思想の世界を糾弾するものとして評価出来るのである。もはや、閉ざされた世界は終わった。実利的な意味としての共産主義の崩壊や、自由主義諸国でさえ、心の崩壊を招くといった、決して思想、信条が絶対でなくなったことを思い知らされた今、閉じられた世界で、閉じられた信仰を有することはないだろう。我々キリスト教徒にしても、キリストは普遍であっても、普遍という意味のカトリックでさえその教義は決して教義という性質から普遍ではなく、よって、プロテスタントも、東方教会も、ひいては仏教もイスラム教も我らの兄弟であることを思い知るべきだろう。吉本氏の思想はその意味で非常に注目されるのである。

 

吉本隆明氏と連合赤軍事件

 

  かつて連合赤軍事件という事件がありました。学生運動が過激性を増した末に長野県軽井沢の浅間山荘において連合赤軍と称する学生運動組織が仲間八人を残虐な方法でリンチ殺人を犯すという事件が起こりました。当時、この事件はあらゆるメディアで大々的に報道され、学生運動に好意的であった人々ですら、急激に態度を改めるとともに、学生運動の沈滞を招き、時は急速に政治の時代から三無主義(無意志・無目的・無関心)と言われる時代へと移って行きます。

 この連合赤軍事件について興味深い回想を吉本隆明氏が「夜と女と毛沢東」(辺見庸氏と共著)の中で述べています。当時、同事件に関してキリスト教徒の加賀乙彦氏が「あれは気狂(きちが)いのやっていることだから、情状酌量の余地はない」と発言したのに対して、吉本氏は「僕はそりゃあまりに単純な見方だと憤慨して、反論したことを覚えています。そうじゃない、人間性の中にはある条件が揃って追い詰められると、敵を作りだしてこれを粛清するという習性が含まれているんだ。連合赤軍事件は例外的なケースじゃなくて、いつでもどこでも起こりうることなんだ。自分だけがそういう条件から免れていると思うのは間違いだ」(57頁)と語ったと述べています。

この両者の発言の内容に関して私は極めて残念な思いを禁じ得ません。加賀氏の発言が極めてキリスト教的なものでなく、吉本氏の発言こそ、仏教、キリスト教を含めたおおよそ宗教的なものであって、人間の深層心理を示しており、それはそのまま人間の悪を認識することで深い宗教理解へと高まると思われるからです。

 加賀氏はドストエフスキーについても深い理解を示していますから、こうした人間理解が加賀氏のものだということ自体、私には解りかねることなのですが、事は事実のようです。私は仏教徒であろうと、キリスト教徒であろうと、人間への深い理解が宗教心には必要と思いますから、この両者の発言にはキリスト教徒として極めて残念な思いを禁じ得ません。

 吉本氏の発言には氏が深い関心を抱いている親鸞の「我が心の善くて殺さぬに非ず、まして害せじと思えども百人、千人を殺すこともあるなり」という言葉を思い起こさせますが、何も親鸞を持ち出さないまでも、吉本氏ほどの深い人間理解があれば、こうした発言は当然かとも思います。また、イエス・キリストにしても、どのような犯罪を起こそうと、その者は当然社会的な裁きを受けるとしても、他でもない社会の一員を為す我々が吉本氏の言う「人間性の中にはある条件が揃って追い詰められると、敵を作りだしてこれを粛清するという習性が含まれているんだ。連合赤軍事件は例外的なケースじゃなくて、いつでもどこでも起こりうることなんだ。自分だけがそういう条件から免れていると思うのは間違いだ」という論旨に反論する根拠があるでしょうか?

私たちは他者はいません。赤の他人はいません。皆な、兄弟姉妹です。例え、犯罪人であってもです。自分の子供を殺した犯人でさえ、イエス・キリストの教えからすると兄弟姉妹だと私は思っています。但し、その方を憎むかどうかは人間として別の話です、当然。・・・・そのことによって悩むでしょう。ただ、キリスト教徒の現状は加賀氏の発言に賛意を示す者も多いでしょう。そうした人の反論としての発言を私は聞いてみたいものです。

 

自らの心の裡に悪や罪の可能性を凝視めてこその信仰ではないだろうか?

 

先頃、飲酒運転をした市の職員を庇おうとして、市を挙げて減刑嘆願書を出した市がメディアや当市民のバッシングを受けていますが、それに対して、市長が「罪を憎んで、人を憎まず」というコメントを出し、さらにバッシングを受けています。

「罪を憎んで、人を憎まず」とは、「罪を犯した人は然るべく法の下に裁きを受けるが、他の人は本来的に、人は人を裁くものではない。それは自らも罪を犯す可能性があり、冤罪の可能性すらあり、よって、犯罪者といえども、その心の中の裁きまではせず、否、不可能なのであるから、後は神の裁きに任せよう」というものだと思います。

かつて、世上を騒然とさせたオウム真理教事件にしても、宮崎哲弥氏は「自分も入っていたかも知れない。状況次第では十分にあり得た」と発言していたのを記憶しています。宮崎氏は仏教徒ですが、私は宮崎氏がさすがに仏教をも極めた優れた哲学者的な評論家だと認識したものでした。

自らの心の裡に悪や罪の可能性を凝視(みつ)めてこその信仰でしょう。暗夜を凝視めずに、何故、光ある世界が(ひら)けるのでしょうか?

加賀氏は連合赤軍事件の犯人たちを気狂いと片づけました。高学歴の彼ら(オウム真理教事件も含めて)が気狂いとは考えられず、「状況に巻き込まれ、不幸にも犯罪者となった」と私は思っていますが、加賀氏はその可能性がなかったと解釈しているのでしょうか。彼の人生において、或いは思索において、或いは信仰において、彼は胸を張って、「私には例え、その状況にあろうとも、犯罪者となる可能性はなかった」。さらに言えば、「彼らは神のもとに、私と同じ兄弟姉妹とは言えない」とでも言うのでしょうか。私には()かりません。

 

参考文献=吉本隆明/<義>は<義>に感応し、<義>の立場につけば、<義>の構造は問われずに免罪されるものだ、などと考える男は、幸福な男である。<不義>とおなじように<義>もまた、苛酷にその骨の髄まで疑われ、問いただされることを、免れるものではない。そして、どんなに疑われ、問いただされても、なお耐えうるときに、<義>もまた<自然>に、あるいは必然の固さにはじめて触れることができる。(試行NO38・情況への発言/試行社)