宗教と文学(香川浩彦)

 

⑥ドストエフスキーのキリスト開眼

 

ドストエフスキーは若い頃、政治犯としてシベリアへ流刑されますが、そのさい、聖書一冊のみを携えて行きました。そして、極寒のシベリアで、彼は多くの犯罪者とともに苦しい労働の日々を堪えながら、聖書を読み、その中で強烈に聖書の中のキリストに惹かれて行くわけですが、その渦中にあって、当初、銃殺刑を宣告されながら、間一髪のところで助かるという稀有な体験をします。
 私はこうしたドストエフスキーの体験が彼の聖書理解をより深めたと認識しています。遠藤周作氏が「平凡な人間が、ごく平凡な日常生活を送っていて、聖書、特に新約聖書を読んでも、それが心に響いてくるとはとても私には思われない」と言っていますが、ドストエフスキーは「ごく平凡な人間でない(知性、理性に加えて、感性、想像力ともに豊かな人間である)ことに加えて、極めて特殊な体験をした」ことになります。
 彼はこの後にある夫人に宛てて、次のような手紙を書き送っています。「信仰箇条というのは、非常に簡単なものなのです。つまり、次のように信ずる事なのです。キリストよりも美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストよりも道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にはない」と、さらに「たとえ誰かがキリストは真理の埒外にいるという事を僕に証明したとしても、僕は真理ととともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたいのです」(小林秀雄「カラマーゾフの兄弟」から)。
 ここで最も注目したいのは後段の「たとえ誰かがキリストは真理の埒外にいるという事を僕に証明したとしても、僕は真理ととともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたいのです」という言葉です。
 ドストエフスキーは真理をキリストに見出したのです。いや、というよりも、もし、キリストの中にある真理が真理という言葉で呼ばれなくても、ドストエフスキーはイエス・キリストが到達した世界の中にその最も重大な、人生において最も大事な、ひいては人間にとっては最も心奥の及びがたいもの、それ故に尊いもの、美しいもの、完全なもの、を見出したのです。

 

ドストエフスキーのキリスト観

 

そういうドストエフスキーのキリスト観は西洋が造り出した人工のキリスト教観とは違うものでした。キリスト教とは、イエスという歴史上の人物の生前と十字架上での死とそのさいに言われたとされている言葉を通して初期のキリスト教団の手で聖書が編まれ、後にローマ・カトリック教会として組織化されて成り立ったものです。そのさいに忘れてはならないのは組織化されたものに不可欠な、否も応もない、必要悪とさえ言える権威とその下にヒエラルキー(階級)が存在し、そしてその当然の結果として教義というものが存在するという必定です。

そしてそうなると、その組織は自らの組織を守るために自らの組織の正当性を主張し、他団体(異端)を弾圧、もしくは迫害するということが起こるという、おおよそ宗教にとっては理想からはほど遠い事態が起こるということです。ローマ・カトリックは過去二〇〇〇年の歴史の中で人類に対して行って来た功罪のうち、遥かに功があったと私は考えていますが、しかし、自らの唱える真理を尺度に、他の宗教組織を迫害して来たという事実はキリストを真理とする真理の尺度からは遥かに考慮すべき点があると私は考えています。

尤もプロテスタント教会や他の組織化されたキリスト教団も多かれ少なかれ同じような所業を犯して来たと私は思っています。それは人間が組織を造る以上、避け得ない、人間の業が犯す過ちと思っています。その過ちを過ちとして認め、組織として、或いは個人としても深くキリストの前に額ずくことが私たちキリスト者の務めと思っています。そして、今ではキリスト教会、或いはキリスト者の過去や、今現在の罪に対する悔悟と祈りは行われ続けているとも思っています。

しかし、ドストエフスキーの時代はまだ中世の時代を色濃く残す時代でした。情報の未発達も手伝って、ドストエフスキーはキリストの真理を教義という(すだれ)で覆い隠し、真理の名のもとに正義と非正義を分け、異端裁判などを行って来た従来の西洋キリスト教に我慢がならなかったでしょう。  

ドストエフスキーがある夫人に宛てた先の手紙の、《キリストのみに価値を見出す無垢とも言える真っ直ぐな、教義を超えた、いや、そのカケラもない、聖書のみを通して深く得た》ドストエフスキーのキリスト教観はそういう意味で、西洋のキリスト教と明らかに違い、ロシアの土着のキリスト教とも違う独自のものだったと私は思います。

といって、ドストエフスキーはキリスト教徒ではありませんでした。ドストエフスキーが洗礼を受けて、正式なロシア正教の信徒となったという話を私は聞きませんし、知りません。ドストエフスキーの年譜によってもそのような事実は記されてはおりません。

それは私が考えるには彼があくまでも誠実な聖書による無垢で純粋なるイエス・キリスト信奉者であり、しかし、それにもかかわらず、やはり作家の常として「信と不信の人」であり、それは生涯続いた故だと私は思っています。

 

 参考文献=全くこの世のなかには宗教は多い。だが私が、そのなかの一つにすぎないキリスト教の洗礼を受けたのは、他の宗教と比較対照して研究し、これが一番よいという判定を下したからではない。それは全く偶然的な事柄にすぎないのである。私に文学の限をひらいてくれたドストエフスキイという人が、その作品を通じてイェス・キリストという名を私に示してくれたからであり(そのとき私は生きることに行きづまっていたのだ)、しかもドストエフスキイの自称するところによれば、あらゆる懐疑論を突き抜けた信仰をもったクリスチャンであったというからである。私は、そのドストエフスキイを信頼したのだ。だから私は、もしドストエフスキイに出会わなかったらと考えると、いささか神秘めいた気持になるが、むろんそんな気持なんかどうでもいいことだ。とにかくこの世のなかには、私の無知のせいで知らないでいる、おそらくキリスト教よりも立派な宗教があるかも知れない。それだのにそんな宗教をさがさないのは、キリスト教が私の求めるものに対して必要にしてかつ十分な保証をあたえてくれているので、他の宗教をさがす気にはならないというだけのことである。だからこのような私には、他の宗教を邪教だとか異端などとののしる根拠もないし、そんな勇気もない。「信仰というもの」(椎名麟三)

 

次の大江建三郎の言葉の中にドストエフスキーに似た《知性が破壊される》ものを感じますので、引用しておきます。

注:学生時代に芥川賞を受賞したこの才気あふれる作家(大江健三郎)が、その若い日に障害をもって生まれた子どもを抱えて、いかに生きるかを苦悩し、かつ誠実に歩んできたことを知ったからである。’

彼はその最初の衝撃を次のように言う。「僕は(障害をもった長男光の誕生によって)かつてない揺さぶられ方を経験することになった。いくらかの教養や人間関係も、それまでに書いた小説も、何ひとつ支えにならないと感じた」と。そして、「小説を書くことも、何も手につかない一、二年」を過ごしたと言う。「信仰者の自己吟味」(工藤信夫)より

 

 小林秀雄にとってのドストエフスキー

 

小林秀雄はドストエフスキーの諸作品を読んでいるうちに、その根底にキリスト教思想が深く横たわっていることを知ったと思われます。その結果、小林は聖書を手にとることになるのですが、結局、小林にはキリスト教が理解できませんでした。そして、誠実な小林はドストエフスキーの作品を裏づけているキリスト教の核を理解出来ないままドストエフスキー論を書くことの矛盾を自らの裡に認め、作品論ではなく、「ドストエフスキーの生活」に視点を置き換え、書くことになります。文芸評論はあくまで対象たる作品を可能な限り完全に理解・把握し、その自信と、ある場合には愛情・愛着のうちに書かれるものですが、小林には聖書のみならず、それを超えた一種のキリスト教信仰なるものが理解できない限り、ドストエフスキーの作品について安易に深く踏み込んだ論評を(あらわ)してはならないことがよく分かっていたと思われます。

小林は結局、ドストエフスキーについて、こう書いています。「彼(ドストエフスキー)は、国民とインテリゲンチャとの間の深い溝を、単に観察したり解釈したりしたのではない」「彼は溝の中に大胆に身を横たえ、自ら橋となる事が出来るかどうか試したのだ。彼の理想はそうしなければ語ることが出来ない理想だった」(作家の日記)。これはドストエフスキーが恰もイエスがビアドロローサ(悲しみの道)を時の権力と民衆の無知によって血だらけになりながら、十字架を背負って歩かざるを得なかったように、自らもその橋になろうとして歩き、身を横たえざるを得なかったことを著しているように思われます。そしてそのことはとりもなおさず、小林の文芸批評のあり方をも提示していたと思われます。

彼はどのような作家・作品について書いても、そこに「小林秀雄」がいました。決して冷静かつ客観的な作品論評であったとしても、そこに対象たる作品の血や肉となった、まさにその血や肉を理解しようと努めました。ひいてはその血や肉と同化することで、作家を作家たらしめている根源に近づこうとしました。その結果、書かれた作品は評論であるにもかかわらず、いつもその評論には作家を超えて「小林秀雄」がいたのです。

その姿勢はドストエフスキーそのものでもありました。それはまた、まぎれもなく小林秀雄そのものの時代や民衆との(ちぎ)り方の在り方でもあったのです。