宗教と文学(香川浩彦)

 

①宗教と文学が失ったもの

     

私はこの頃、宗教と文学という二つのジャンルを学んでいるとき、宗教が失ったものを文学が持ち、文学が失ったものを宗教が持っているのではないかという気がしている。

宗教が失ったものとはある自由な精神であり、それを文学が持っているのだ。そうして文学が失ったものとはある聖なるものへの憧れ、或いはある善きなる者への限りなき憧景であり、それを文学が失っていると思うのだ。宗教(ここではキリスト教)が自由な精神を失っているとはある意味で、原始キリスト教団の頃から始まっている。某宗教学者が指摘するように原始キリスト教団とはすでに三位一体をはじめとする数々の教義(ドグマ)が打ち立てられており、それがニーチェやランボーが指摘するような奴隷の宗教、或いは「神は人聞からありとあらゆるエネルギーを奪った」とする、ある意味で感受性を枯渇させると取れるような解釈を生み出しているのだ。そして、それが当たらずとも遠からずと思えることは非常に残念なことなのだ。何故なら、教義(ドグマ)ばかりを見、イエスを見ない人たちはニーチェやランボーが言ったように神の金縛りに会い、むしろ自由になることがキリスト教の使命でありながら、図らずも律法主義に陥っているキリスト教徒がまだまだ多いことからもうかがい知れるのだ。

ところで、文学が失ったある聖なるものへの憧れ、もしくはある善なる者への憧れというのは、これは時代のせいだろう。すでに昭和三十年代に作家の立原正秋氏が「我々の時代には書くものがない」と嘆いて、独特の男女の美学へ傾斜して行ったように、すでに時代はモラルを持たず、聖なるものを持たず、あるせつ那的なもの、享楽的なもの、瞬時の感覚的なものへと傾斜して行っているのだ。そして、文学(小説)が時代を映す鏡である以上、人々もそうで、享楽的に時代の表層に浮かび、恰もうたかたのようにあてもなくさ迷ってあえいでいるのだ。そして、それをうまく当て込んで金儲けを狙っているのが、実は新興宗教界なのだ。〔失礼!〕 

ところで、宗教界は酸素不足で、文学界は酸素があり過ぎて享楽的であれば、未来はいったいどうなるのだろう。私はこの未来を救うのは宗教でなければならないと思っているが、残念ながら、もうキリスト教には期待していない。二十一世紀はおそらく宗教の時代であろうが、それはおそらく他の宗教ではあっても、キリスト教の時代ではないのである。それがおそらくキリスト教が失った自由の精神の最も大きな代償であることは確かである。そして、この状況を見るとき、文学という放蕩息子が持った宿命、また、宗教という極めて生真面目な息子が持った自由の喪失という皮肉な側面が見えて来るのも確かなのである。宗教と文学が何処へ行くのか、まだはっきりとは見えて来ない。