教会での違和感㉔

 

思惟する連続性(頑なでない信仰とは)

 

詩人で作家の辻井喬氏がテレビのインタビューで、現況の日本のあらゆる面においての課題について聞かれ、故三島夕由紀夫の 「私はこれからの日本に大して希望を持つことができない。このまま行ったら、日本はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。日本はなくなって、その代わりに無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと私は口を聞く気にもなれなくなっている」(果たし得ていない約束)という言葉を持ち出し、三島氏の未来を予見する作家としての鋭い慧眼を讃えていました。それに対し、テレビのインタビュアーが当然予測された質問ですが、「辻井さんは左翼系の作家で、三島さんとは立場を異にされる作家だと思われるのですが、何故、讃えられるのですか?」というような質問をしていました。それに対し、辻井氏は「立場を違えていても、同じ作家として誠実に人間を考え、世の中を考え、その結果、未来の日本を憂えた三島氏は偉大であった」と語ったと記憶しています。

このことはどのような思想・信条・宗教の持ち主であれ、物事を考える人間として、実は当然の、当然すぎる姿勢だと思われます。思想・信条・宗教を違えるということは、最終的にはその方の個人的事情(DNAその他の全的に受動的な条件)によるのですから、何ら罪も咎もありません。当然のことです。問題はどれほど誠実に自らの運命や宿命を引き受け、自らの立ち位置で誠実に考え、思惟を深めたかという点にあると思われます。

私はキリスト教徒であれ、マルクス主義者であれ、天皇制信奉者であれ、その人のただ中に誠実さを視たときにはその方に対する尊敬の念が現れます。但し、それらの方が決して自らの思想・信条に頑なにこだわらず、いつでも「思惟する連続を約束する」条件を伴ったときに限られます。つまりは実にシンプルなことですが、思考停止の状態のもとでは、人はとてもその人の人生に対する誠実さを信じるわけにはいかないということになります。

ですから、私は教会において、人間として当然の義務である自らの宗教的心情・在り方について相対的な視点を持ち得ない方については、まったく残念ながら対話する勇気?を持ちません。これはほとんど気違い沙汰だと思われますから。・・・せっかくの人間の一度限りの人生を、しかも神に賜った生命を、それを信じるという自分が絶対ではないにもかかわらず、「イエス・キリストを絶対だと決めてしまった自分が絶対」だと思っている方々に対して、とても対話を進めることは出来ないのです。

そういう方々はきっと信仰深い、キリストの教えに忠実な方々でしょうから、そういう生き方を為さればいいと思います。私はキリストの教えをむしろ、深い普遍的な教えとして受け止めるためにさらに積極的に他の思想・信条・宗教の方々と、頑なでない「思惟する連続を約束する」ことを条件に幅広く対話したいと思います。

 

注:教会は人生論を展開するところではなく、福音を提供するところだと言われますが、だからといって、福音は、人にものを考えさせない全体主義ではないはずです。福音は、神の視点でものを考えることをやめてしまった人を目覚めさせ、自分の人生を、それこそ暗い面も含めて、しっかりと見つめ考える力を与えるものであるからです。(中略)とにかく、思索を忘れた教会は、表面はともかく、聖書的な実質を失いかねません。リバイバルの声も、運動とバランスの取れた思索を伴わないものにならないようにと、心から願うのです」(野田秀「提言‘思索が不足してはいないか」クリスチャン新聞、一九九三年九月五日号)。

 私がなるほどと思ったのは、「日本の今の福音派に不足しているのは、祈りでも熱心でもなく、思索ではないでしょうか」という指摘と、「人にものを考えさせない一種の全体主義がみなぎってきているのではないか」という考えに関してである。「信仰者の自己吟味」(工藤信夫)より

 

 注:宗教家は多くの場合、あまりにも他を知らない。科学者は常に他から学ぼうとし、哲学者でさえ他の学説に常に注意を払っている。しかるに宗教家は、自己を保つに他を必要としないということから、また他を問題にすることによって自分の信仰がぐらつく恐れからも、他の宗教に対しては無知であるか、また知るとしても、最初から戦闘的護教意識に駆られて、ただアラ探しのための研究になり下がったり、聞きかじりのことから、自分勝手な早急な判断を下して得々としていたりする。このような態度が、およそ非キリスト的であり、非カトリック的であることに気がつくことさえなく、それが根強く我々の中に隠されていることがあるのは嘆くにもあまりある。というのは、日本のような多くの宗教が雑居し、各々その市民権を獲得している社会において、そうした縄張り意識ほど布教を阻害しているものはないからである。「奥村一郎選集2」(奥村一郎)より