教会での違和感㉒

 

クリスチャンって、救われる?

 アマチュア文芸誌の編集長をしていた頃、若くて生意気なある女性にこう訊ねられたことがあります。「○○さん、クリスチャンって救われるの?」。そう言って、その女性はニッコリと微笑うと、美しい真っ白な歯を口元から覗かせて、さらにふっと小首を傾げてみせました。その仕種が明らかな皮肉とアイロニーを私に投げかけていて、私は何だかまともに正面切って応えられず、オタオタとしたことがあります。

救われる、という言葉の何とも浮き世離れした、フワフワした、リアリティーのない、正体不明のまるでクラゲのような言葉が何とも私自身にも居心地の悪い、その言葉を使う種族の類に私自身も属しているとその女性に思われたということが私をも不快にしていました。

投げられるはずのない言葉を投げられて、(言葉ば概念ですから)、その応答にまったく窮していたような記憶があります。

非クリスチャンにとっては、救われるという言葉ばほとんど非現実的な、何やら世迷言の象徴のような言葉に思えるでしょうが、クリスチャンの私にしても、正直言って、あまり気持のいい言葉ではありません。

救われる、とはいったいどういうことでしょうか?どういう感情でしょうか?どういう概念でしょうか?また、人はそう簡単に救われるのでしょうか?

昔、我が国では「南無妙法蓮華経」と唱えただけで救われるという教えがありましたが、それと同じレベルでしょうか?

救われるというからには神に我が身・心をすっかり委ね切るという心情・概念・心境、ひいては信仰が必要だと思われますが、そんなことが年がら年じゅう、そんなに簡単に起こるのでしょうか?

いや、私は正直言って、その言葉が嫌いなのです。だから、このように向きになっているのです。それを認めます。そしてその言葉を未だに安易に使う風潮がクリスチャンの間でもあるらしく、個人的にはあまり愉快ではありません。それでそのことを抗議したい気持ちがたぶんにあります。こういう荒ぶる感情が起こることはクリスチャンとしてあまり誉められたこととは言えませんが。・・・・

さて、件の女性や私が救われるという言葉に何故、アレルギーを抱くか?

それはおそらく心の奥深くから来る内面の叫びの、内面のマグマの、真しな姿勢の、内省の果ての、信仰のあげくの、つまりはクリスチャンとして、いや人間として誠実な自らの言葉としての性質を持ち得ていないからでしょう。言葉は匂いです。その言葉が貴方の言葉であれば、多少キリスト教を逸脱していても、いや、逸脱しているからこそ、貴方の人間性やさらに個性を有していて、他の聴く者を豊かにしてくれると思うのです。それが真の豊かな信仰ではないでしょうか?貴方の言葉で語りなさい。美しい花は、ただ美しいのではなく、どのように美しいか語りなさい。それは貴方の言葉です。貴方の言葉で信仰を語りなさい。そのとき、貴方は安易に「救われた」などと語らないはずですが、どうでしょうか?