教会での違和感について⑳

 

続・卵の黄身の話し(路傍の人の信仰)

 

私の知人にこういう方がいます。六十歳代の女性で、彼女は夫とともに何十年にも亘って営んでいた商売に失敗し、多額の借金をしました。とうとう行き詰まり、一人とぼとぼと道端を歩いていたときのことです。ふと見上げると、教会の看板があり、そこに「私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」という聖書の御言葉が書かれてあったというのです。彼女はその場で屑折れてしまいました。へなへなと膝が崩れ、その場で膝まづき、立ち上がれなくなってしまったというのです。そして後日、その教会へ通うようになり、彼女はもう二十五年ほどにも亘って教会へ通い続け、今では熱心な信者です。

彼女は決して教養豊かでもなく、知識人でもありませんが、《彼女の心を射抜いたのは真実のキリストの教えであり、心であった、つまり、卵の黄身(キリストの心)だ》と私は思っています。

このことはある意味ではキリスト教信仰はキリストと信者の合作というところもあって、借金した彼女が行き詰まった挙げ句にあの場を通らなければ、例え「私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」というキリストの御言葉があっても、彼女は行き詰まっていなければキリストの御言葉に心を動かさなかったでしょう。しかし、疲れた彼女の心にキリストの言葉は届いたのです。「私が来たのは健康な人を助けるためではない。病人のために来たのである」という言葉は成立しているのです。

彼女は後に結局破産して、夫とともに小さなアパートに暮らしていますが、キリスト教会へは通っています。道端を歩いている折り、自分にくれたキリストの言葉が単なるその場しのぎの気休めや、ちょっとした癒しではなく、心を射抜いた言葉だったということを彼女自身がよく知っているからだと思います。

 何故なら、その後、彼女は商売を再建することなく、人生には失敗していますが、心の安らぎとして、「私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」という言葉が相変わらず彼女の心を物質的には貧しいながらも、記憶の中の強烈な一断片として自分を捕らえ、そのことが心の中の人間として最も大切な部分を癒し続けていると思われるからです。

 

 追記・「叩けよ、さらば開かれん」という言葉は「叩けば、誰にでも開かれる」というなまじの言葉ではありません。死ぬ気で叩く、或いは追い詰められて、もう、目の前の門の向こうの場所しか、自分を助け、救ってくれるものはないと、自覚的であれ、無自覚であれ、叩く者にしか開かれません。安易な気持ちで叩く者に門は開きません。無心に叩く。もう、救う者はないから、無心に叩く他はない。それ故、ただ、もう、無心に、命がけで叩く。そのような者にしか門は開かないのです。門を開くのはあなたなのです。神様は待っている。しかし、その力を伝え、その力を受け取り、確かに門を開けてくれるのは神様ですが、それはあなたしだいなのです。「著者・香川」