教会での違和感㉘

 

愛はなにも求めないので、救いをも放棄する(シモーヌ・ヴェイユ)

 

次のシモーヌ ・ヴェイユの言葉はずいぶん刺激的なものです。そうして当然の言葉として、私の裡に教会への長い間の疑念の溶解として私の心を癒すものです。

「愛はなにも求めないので、救いをも放棄する。救われるとは、神のうちで完全な歓びに満たされることである。神であり善であるのは、神であって、わたしではない。それゆえ、愛が充溢するために、わたしの救いは問題とはならないのである」。

これ以上、何が必要でしょうか?人は奇跡を言います。奇跡を求めます。しかし、このシモーヌ・ヴェイユの裡にすでに奇跡が起きているのではないでしょうか?教会は、そして信者は「奇跡は?奇跡は?」などと言います。そして、実際に、物理的に起きている奇跡だとか、心の裡に起きている奇跡(変革)だとか、さまざまなことを口にします。そして、「救われるのは誰か?」と辺りを見回します。しかし、それが本当に必要なのでしょうか?救われるとは、本当の救いとは?それに答えるためにこのヴェイユの言葉は極めて重要なものなのです。このヴェイユの言葉ほど神に満たされ、神の愛に満たされ、それだけにのみ心を充溢させた歓びを私は知りません。

救いさえ要らないとは何でしょう?しかし、これは当然のことなのです。キリストの愛に満たされたものが、どうして救いを求めましょう。それだけで救いなのです。それ以外、要らないのです。それこそ聖寵に満たされ、神のみに生きる者の姿なのです。神と合一するときに、すでに私は私ではない。そこには無窮の空間のみがあり、言葉さえなく、神と私の、時間の止まった永遠の、しかし一瞬の時間があるのです。それは永遠であり、一瞬であり、そして、そうした意識空間を神と共有し、その歓びが充溢するからこそ、「神であり善であるのは、神であって、わたしでは」なく、「それゆえ、愛が充溢するために、わたしの救いは問題とはならない」のです。

ここには神への愛故に自分を捨て切ったヴェイユの姿があります。いや、愛とはもともと、完全なる愛とは自分を捨て切ることではないでしょうか?救いとは結果です。そのことをヴェイユの神への愛は示しているのです。

 

注・「彼は罪のない人々の不幸を笑う。」これは冒涜ではない。これは苦痛からしぼり出された本当の叫びなのだ。「ヨブ記」ははじめから終りまで真実と真正の純粋な素晴しさである。このモデルからはなれた不幸についての言葉は、すべて多少ともうそで汚れている。(シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』渡辺秀訳)

 注・「慰めのない<不幸>とか、絶対的な<絶望>をとおしてしか人間は神に近づけないのだ、それ以外の近づき方をしようとしたり、したつもりになっているのは全部うそだ、それは<うそ>の感情と<うそ>の信仰、<うそ>の神なんだ」とヴエイユは言っている。

 

注・1964年、ヴェイユが亡くなって21年後、カトリック教会は第二バチカン 公会議で、「神の民について」という重要な、そして画期的な宣言をするのだ が、その一部分を紹介することにしたい。・・・・・・・・・・・・・・・ なお、神はすべての人に生命と恵みといっさいのものをお与えになり、また救い主は すべての人が救われることを望みたもうのであるから、影と像のうちに知られざる神を 捜し求めている他の人々からも、神はけっして遠くはないのである。事実、本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠実な心をもって神を捜し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵 の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達する ことができる。また本人のがわに落度がないままに、まだ神をはっきりと認めるには至らないが、神の恩恵にささえられて正しい生活を身につけようと努力している人々にも、神はその摂理に基づき救いに必要な助けを拒まれることはないのである。 第二バチカン公会議・教会憲章・中央出版社より引用。                                                   

 

2バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」にこんな言葉が書かれています。「人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を形成するために、宗教に関する真理を探究する義務と権利を持っている」(第2バチカン公会議公文書全集, p.244, 南山大学監修)。この公会議以降、カトリックは変わりました。