ダンスは続く

 

きのう 冤罪で

人が死刑台へ送られた

きのう 祖国のために

若い兵士が遠くの異郷で殺された

 

それでもダンスは続く

 

きのう 拉致で娘を奪われた老夫妻が

駅で必死の訴えを行ったが誰も振り向かなかった

 

その拉致の国で子供が道路に横たわり

死んだ 

餓死だった

 

スモーキーマウンテンでゴミの山を漁る子らやマンホールチルドレンや

十四歳で売春を強いられる子らや それらやそれらやそれらやがいても 

ダンスは続いた

 

善い人が死んでも 悪い人が死んでも

ダンスは続いた

娼婦が死んでも貴婦人が死んでも

ダンスは続いた

政治家が死んでも乞食が死んでも

ダンスは続いた

いつまでもいつまでもダンスは続いた

 

それが僕らだ

 

キリスト教徒の責任について

 

歴史の上で、私たちは大きな罪を犯しました。
「歴史の上で」と言ったのは私たちキリスト教徒は歴史の責任から逃れられないからです。「過去のことだから、私たちには関係がない」というのはキリスト教徒として未熟だし、無責任だし、自覚がないと私は思います。

-私はキリストとともに十字架につけられた。もはや、生きているのは私ではない。キリストが私のうちに生きて働いているのである-というパウロの言葉が時を超えて私たちの胸に響いて来るのは-神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された-という神の言葉が生きているからであって、その言葉がパウロを通し、時間を超えて私たちの胸に杭を打ちつけるように強烈に響き、現実性を持ち、即、行動を促すのだろうと思います。

ですから、キリスト教徒は過去、現在、未来へと希望を持ち、責任を持ち、全体性の共感によって結ばれていると感じるのです。

-イエス・キリストはきのうもきょうも明日も生きているのですから、当然、私たちも「きのうもきょうも明日も生きている」と感じなければなりません。それは同時に個々が人間の全体性に責任を持ち、愛を感じ、同時に罪を自覚し、キリスト教徒としての行動を促すのだと思います。