小説・雪の十字架⑬~⑯
副題=ジャンヌ・エビュティリュヌより、あなたへ
妻を死へ追いやった罪
表へ出ると、伊関の会社の社長専用車が待っており、助手席に伊関、後部座席に芳恵の母と多恵が乗っていた。 この車で、軽井沢まで行くつもりだろうと、上川は運命を諦め切った犯罪者のようにぼんやり考えた。すると、三、四時間はかかることになる。上川が後部座席に座ると、
「芳恵は自殺だ。お前が殺したようなものだ」と、伊関が言った。
芳恵の母が前のめりになり、おおっと、声を押し殺したような叫び声をあげた。
多恵は何が起こったか、まだ事情が呑み込めないようで、オカッパ頭の、愛くるしい顔を上川の方へ向けて、ニコニコと微笑っていた。
「だから、合いの子との結婚は反対したんだ。すべては血だ。血のせいだ」と後部座席を振り返り、伊関が怒鳴った。
「ましてやお前の母は沖縄の果ての宮古島の出身で、沖縄でも宮古島出身者は嫌われ、差別されているそうじゃないか。アイヌや部落出身者と似たようなものだと言われているそうじゃないか」と、キリスト教徒にもかかわらず、声を荒げた。
「最悪の血が最悪の結果を呼んだんだ。血筋の悪い奴は血筋の悪い奴同志、一緒になりゃあ、いいんだ。それを高望みするから、こういうことになるんだ」
伊関は怒りが収まらないようだった。
「芳恵も芳恵だ。よりによって、合いの子の歌手に入れあげやがって」
そう言うと、妻に向かって、
「お前が甘やかすから、いけないんだ」と怒鳴った。
芳恵の母はただもう、うなだれて、時折り、うなずくように首を上下に振った。
「ホストと寝たあげく、雪の軽井沢に飛び出すなんて。それも裸同然というじゃないか。芳恵も伊関の家に泥を塗ったようなものだ。教会へどう、顔を向けたら、いいんだ。商売はどうなるんだ」
伊関は一気にまくし立てた。
伊関家は明治の終わり頃、先々代が寝具店を立ち上げた。戦争も伊関家に味方した。病院や福祉施設に得意先を持ち、地域に福祉活動をすることで、さらに信頼を広げ、商売を成功させて行った。
同時に一家は全員、キリスト教徒として洗礼を受け、クリスチャンとなった。クリスチャンらしく、模範的な行動を取るよう代々躾けられ、今日に至った。その教育は伊関隆三の代まで成功したが、一人娘の芳恵までは届かなかったということだ。
芳恵は裸で、雪の中で死んでいたのかと、上川は今はもう疲れ切った頭の中で、ぼんやり考えた。芳恵らしいと、ふと思った。日頃から、エキセントリックな芳恵のことだ。冷静なようでいて、何をするか分からないところがある。……後先考えず、きっと、その場で衝動的にそういう死を選んだのだろう。
しかし、これは自殺だろうかと、上川は考えた。自殺寸前の芳恵は狂っていたのではないかと思った。狂った人間を自殺と言うだろうか?
自殺寸前の芳恵はきっとピュアな心になっていたのだろうと、上川は考えた。そのピュアな心が、ホストと、きっと愛情のない愛欲を繰り広げている自分を顧み、激しい自己嫌悪の状態になり、罪の意識を生んだのだろう。それが芳恵を狂わせたのだろう。しかし、それは憶測であって、確かなことは分からない。……
上川に死なないで下さいと頼んだ芳恵を上川は思い出した。
あれは自分も死ぬかも知れないという無意識の、芳恵本人すら気づかない、死へのメッセージであり、助走だったのだ。何故、それに気づいてあげられなかったのだ。
今一つは、上川は芳恵が多恵を残して逝くとは考えなかった。きっと、苦しくとも、多恵のことを考えると、死ねないと思っていると考えていた。しかし、それは間違いだった。芳恵はピァアな心が極限まで達したとき、生きていることが耐えられなくなったのだ。それが狂気を生んだのだ。
上川は死ぬ寸前の芳恵をやはり、狂っていると考えた。そしてその芳恵を痛ましいと思った。その瞬間、上川の中を激しい悲しみが押し寄せた。それは濁流のように上川を飲み込み、激しく胸の中を突き上げた。
自分は人殺しだと思った。確かに芳恵の父の言うように、自分は人殺しだ。
多恵の方へ目をやった。多恵は久しぶりに父に会えたという顔をして、むしろ嬉しそうに上川を見上げていた。(続く)
小説・雪の十字架⑭
副題=ジャンヌ・エビュティリュヌより、あなたへ
教会のドグマ(教義)と真実の愛と罪
軽井沢病院の霊安室で会った芳恵は微かな微笑みを湛え、むしろ安らかな顔をしていた。こういう顔を真に憩らいだ顔というのだろうと上川は思った。目元が緩み、口元は微かに微笑んでいた。やっと終わったという顔をしていた。
やはり、狂気だったのだと、上川は思った。狂気でなければ、こういう安らかな顔は出来ない。何故なら、狂気から、完全に放たれた顔だからだ。人は狂気の沸点に達したとき、これ以上、狂えない自分を想う。そうして、自分でも思いがけない行動をとってしまう。それが芳恵には雪深い、朝の軽井沢への狂った疾走だったのだ。
やはり、芳恵は「黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ」を見たのではないかと上川は思った。芳恵のピュアな心にさらに火をつけ、狂気へと失踪させたのは「黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ」ではないか。しかし、寝室には「その絵」はない。それは確かだ。
上川は芳恵の遺体の向こうの伊関へ目をやった。
伊関を拳を振るわせて、何やらうなっていた。
そして、こう言った。
「困った、困った」
霊安室を出ると、芳恵の母と多恵が待っていた。多恵が嬉しそうに上川に飛びついてきた。
「ママは?」と、多恵が言った。
「ん」と、答えるような、答えないような、曖昧な返事をすると、上川は多恵を抱き上げた。多恵は上川の腕の中で、はにかんだように顔をほころばせていた。
(一行、空ける)
瞼の裏に芳恵の顔が浮かぶ。それは上川が犯した罪そのものの顔だ。ふっと目を上げた。一人用のベッドだ。不自然なベッドだ。普通、ベッドは二人用で、二人用のベッドで男女は愛し合う。しかし、そうだとは限らない。一人用のベッドだって、男女は愛し合う。或いはベッドに似た、他の場所でも。他の場所?
上川の脳裏に三十年間、謎だった秘密が解けた。
不意に、上川の眼裏に暖炉の赤々と燃える様が映った。その上に「黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ」の絵が高々と掲げられていた。
うっかりしていたと思った。二人は客間で愛し合ったのだ。寒い夜を、二人は暖炉に火をくべ、大きめのソファーに身を沈め、躯に毛布を巻いて愛し合ったのだ。
そうして、朝が来る。芳恵は起き出し、ふと、暖炉の上の「黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ」に目をやった。それから芳恵の心の葛藤が始まった。ジャンヌは芳恵の姿に目を注いだ。芳恵はジャンヌの瞳のない眼に吸い寄せられるようにじっと見入った。芳恵はおそらくジャンヌの眼に見入りながら、その深い眼差しにひどく驚いただろう。自分の行為の是非を問う、その深い眼差しに……。
しかし、それは厳しい眼差しではなく、やさしい眼差しだ。やさしいだけに、芳恵は深く捉えられたのだ。自分を赦すやさしい眼差し。それはひどく残酷だ。罪を犯しながらも、やさしく赦されるとき、人はむしろ、これ以上にない、罪の意識に苦しむ。罪の呵責に苛まれる。
それは教会のドグマのような、心の表面を繕う表立ったものではなく、むしろ、それを壊すものだ。そうして、真実のやさしさと愛を与えるものだ。真実のやさしさと愛とは。……芳恵はそれを得たとき、自分が何をしたか気づいた。そうして深く赦しを請うた。誰に。キリストに。しかし、それは教会のキリストではなく、ジャンヌ・エビュテルヌを通して与えられるキリストだったのだ。
芳恵は頭を抱えた。自分が何をしたか分かった。誰に対して。上川に対してだ。しかし上川だって、不倫に明け暮れている。しかし、だからといって、自分が不倫をしていいわけではない。キリストは言った。―愛を以って、相手の間違いを正しなさい―。しかし、もう、自分には出来ない。取り返しのつかないことをしてしまったと思った。
教会のドグマと真実の愛、つまり、キリストの愛、この二重の苦しみに芳恵は苛まれた。自分を苦しめているものは何だ。自分は今まで、いったい、何をして来たのだ。隣を見ると、ホストが口を空けて、だらしなく寝ていた。取り返しのしかないことをしてしまったのは事実だった。
芳恵がわめいたのはそのときだった。両手を顔に当て、顔を覆い、次に頭に当て、わめき、起きて来たホストを払いのけ、毛布を引き剝がし、ベッドを下り、戸外へ出た。それからの芳恵は狂ったように歩き出すだけだった。どこへ・・・・。聖パウロ教会へだ。せめてそこにはキリストの像がある。その像の前で、芳恵は額ずきたかったのだ。しかし、力尽きた。
上川は芳恵を想うと、胸が傷んだ。狂った芳恵はうめくように雪の中に沈んだのだろうと想い、その像が眼裏に浮かんだ。(続く)
小説・雪の十字架⑮
副題=ジャンヌ・エビュティリュヌより、あなたへ
《美容院・リヴィエラ》でのこと
両手で躯を支え、上体を起こして、畳の上に座った。右にベッド、左に窓があった。窓の外を見ると、中杉通りに向かう、パールセンターの入り口が雪に覆われていた。行き交う人たちがロングコートを各々着ていて、そのロングコートが雪を被って、白く、斑らに染まっていた。
三十数年の間、自分は何をして来たのだろうと思った。ただ、年を取って、娘に会いに来て、そうして若い頃を思い出し、同時に罪の意識に苛まれて、悶々としている。それは仕方のない業だが、しかし、それにしても闇の中の見えない棘のように自分の心をチクチクと刺すものがある。その痛さこそ、業の結果だが、しかし、それにしても見苦しい、いや、切ない業だ。
上川はふと、芳恵の晩年を想った。晩年、それは芳恵の三十歳頃のことだが、その短い晩年の姿を知りたくなった。芳恵には教会の仲間で、吉井久子という親友がいた。その親友を訪ねれば、何か分かるのではないか。確か、美容院を経営していて、阿佐ヶ谷駅北口の繁華街の外れにあったはずだ。だいぶ暗くなったが、今からでも、場所さえ探して当てることが出来、もし、変わらずにその場所で経営していれば、たぶん自宅も兼ねていたはずだから、会えることが出来るかも知れない。
(一行、空ける)
質屋の横を抜けて、住宅街に近い通りを歩いてみた。おそらくこの辺りだろうと見当をつけて、小路を二つ、三つ、くぐり抜けるように探し歩いた。あった、あった。古道具屋の隣に《美容院・リヴィエラ》と、小さな看板が掲げてあった。さすがに三十数年の時を隔てると、古くなっていて、木造の家屋は茶褐色に見えるほどだが、それでも命脈を保って、生き延びていた。
表はまだ灯りがついていて、中には人の気配さえした。カーテンで閉じられたガラス戸を手でトントンと叩くと、返事はないが、薄暗がりに確かに人の影が動いて、すぐに室内が灯りで点され、明るくなった。
カーテンが動いて、初老の婦人がガラス戸を通して、上川の目に映った。
婦人はすぐにはドアを開けず、カーテンだけ空けて、ガラス越しに―どなた?―というふうに唇を動かした。
上川は自分の名前を言っても仕方がないと思い、芳恵の名前を唇で造って、動かしてみた。
―まあ、―というふうに婦人の唇が動くと同時に早業のようにガラス戸が開けられた。
「芳恵さんのご主人?」と、婦人が言った。
「ええ、上川です。上川望……」と上川は答えると、婦人は―どうぞ、どうぞ―というふうに上川を招き入れた。
寒々とした閉店後の美容院の中で、上川はストーブを挟んで、婦人と向かい合った。(続く)
小説・雪の十字架⑯
副題=ジャンヌ・エビュティリュヌより、あなたへ
愛を知るとき、罪を知る
「吉井さんですね。吉井久子」と上川が訊ねると、
「そうです。芳恵さんとはお友達でした」と、久子が答えた。
「何年ぶりですかねえ」と久子が訊くので、上川は、
「三十数年になります」と、短く言い、ストーブに手をかざした。
コーヒーが出たので、一口飲んだ。
「きょう、こちらへ?」と久子が言った。
「ええ、阿佐ヶ谷へはなかなか来ることで出来なくて。……上京は何度もあったんですが、阿佐ヶ谷へはあれ以来なんです」と言った。
「あれ以来。……そうよねえ」と久子は応えた。
「芳恵さん、狂っていたと思うんです」と久子はいきなり、言った。
「狂って?」
上川は共感しながらも、唐突な久子の言葉に驚いて、思わず尋ねると、
「そう。狂わなければ、自殺出来ないわ。狂った原因が分からないのだけれど」と久子は言った。
「何故って、芳恵はあなたも多恵ちゃんも捨てたのでしょ。そんなのって、狂ってなければ、出来ないわ。だって、その瞬間、何もかも、頭の中から消えるのだもの」と、久子は続けた。
「但し、一つだけ、ヒントがあるの。人間は最も大事なものを失くしたときに、自殺するものよ。それが何だか分かったときに、人間は全て捨てられるの。いいえ、捨てるしかないって思うの」
―それが自分なのか?―と、上川は思った。
―いや、多恵なのか?―とも考えた。
―そしてその向こうにキリストが在る―とも。そうして、それを気づかせたのはジャンヌだ。
久子は続けた。
「芳恵さんは自殺することで、あなたも多恵ちゃんも殺したの。そうでしょ。自殺するって、自分だけが死ぬのじゃなくて、人も殺すことだわ」と言った。
そうして、
「今のあなたはどう?生きてる?」と訊いて来た。
上川は心が塞いだ。確かにあれ以来、自分は死んでいた。沖縄で、何をしても、心が躍らなかった。千鶴との結婚でも、千恵の誕生でも、塞いだ心を満たすことは出来なかった。それは全て、芳恵の死、いや、自殺が原因だ。
芳恵は自分を殺した。そうして、上川を殺し、多恵をも殺した。
「但し、多恵ちゃんは神様を信じなかったけどね。多恵ちゃんは神様を信じないことで、生き延びたの。いっさい、何者をも信じない。その心で、あの子は靭くなったのよ」と、久子は語った。
「教会ではね。神様を愛しなさいって、さんざん言うけれど、その愛が分からないの。愛が分からなければ、神様も分からないの。……私にはどうも、軽井沢の別荘で、芳恵は神様の愛が分かったんじゃないかって思うの。でも、それが不思議なのよ。教会で分からない愛が、なんで、別の場所で分かるの?」
上川はそれが、「黄色いセーターを着たジャンヌ」と思った。ジャンヌはそのとき、やはり芳恵に呼びかけた。愛はここにある。そうして、罪もここにある。その罪の在り処を知ったとき……。
上川は心がひどく塞いだ。
「芳恵を後押しするものがあったんですよ」と、上川は細くつぶやいた。
「後押し?」
「ええ、つまり、本当の愛を教える後押しです。本当の愛を知ったとき、罪も知った。つまり、神様も知った」
「へえ」と久子が言った。
「どんな後押しなの?」
久子が訊いた。
「内緒」と言って、上川は人差し指を口に当てた。いくら、「黄色いセーターを着たジャンヌ」のことを言っても、久子には理解出来ないだろうと思った。あれは悲しみのどん底にある人間にしか分からない絵だからだ。
「悲しみと愛は似ています。その悲しみの深さを知ったとき、本当の愛も分かるのです。神様の愛を知るのはそれぐらい深いものです。但し、罪を知るのも、そのときですけど」とだけ、言った。
久子が立ち上がって、鏡へ寄って行き、自分の姿を覗いた。しげしげと視た。
「私、秘密にしていることがあるの」と言った。
「ホストを紹介したのは私なのよ」と続けた。
「えっ」というように、上川は久子を見上げた。
「芳恵さんがあまりに貴方の女性関係のことで悩んでいるから、私、嫉妬のせいよ、嫉妬のせいなんだから、その嫉妬を消すことを考えるべきよ。それには貴方もご主人と同じことをなさればいいんだわって、芳恵さんに言ったの」と続けた。
そして、
「吉祥寺に<黒ユリ>ってホストクラブがあって、そこの健二って子を紹介したの。後は知っての通りよ。そのホストと軽井沢で」と言うと、久子は鏡を視たまま、
「鏡って、面白いわね。真実のことを言いなさいよって、私にけしかけるの。それで、貴方に話す気になったの」と話した。
そして、上川の前に戻って来ると、
「私の罪はこれだけ。・・・・ああ、でも、重いわ」と、溜め息をついた。(続く)