あの時の違和感、
あとから追いかけるうちに
ふと、すべて繋がっていく感覚を愉しんでいます。
パワハラだと感じる状況に遭遇した話。
新しい職場で働き始めて1ヶ月ほど経つ。
基本的に個室でのマイペースな作業なので、
普段は他の部屋や人のことがわからない。
そんな中で、他の部屋での作業があった。
私がその部屋に行くと、ご配慮いただいたのか、サポートの人が手伝ってくれた。
だが、そのサポートの人もよくわかっておらず、二人で立ち往生していた時のこと。
見兼ねたのか、上司が感情的に私たちの行動を捲し立てた。
私はギョッとした。
入職してから見たことがなかった、上司のあまりに豹変した態度だったからだ。
「あれ、私に言ってるから気にしないで。いつも私にはあんな調子だから。」
サポートの人が、小声で私に言った。
その後、その方と私のフィールドである個室で話す機会があったので、事情聴取。
もう慣れてしまったということだったが、未だに泣きそうになることもあると話してくれた。
一旦は、捌け口があるとのことで安心したけれど、私の心はとてもモヤモヤした。
その日のうちに上司と接することがあったのだが、
何事もなかったかのように丁寧な態度だったことにも、さらに強くモヤモヤした。
ここで、プレイバック。
自分に向けられた攻撃ではなかったはずなのに、なぜこれほど心が波立つのか。
頭を整理していくうちに、かつての「父親が恐かった」という記憶が蘇ってきた。
私は、目の前の上司にその頃の畏怖の対象を投影していたのだと気づいた。
と同時に、これまで生でハラスメントに遭遇したことがなく、
どこか他人事だった自分にも気づく。
強烈な圧力を感じて、何も言えなくなる。
そんなハラスメントの受け手が抱える「身体が凍りつくような感覚」を、身をもって知った。
一番怖さを感じたのは、受け手である本人がその状況に「順応」してしまっていること。
「慣れ」という防衛反応は、自分を守るためのものでもあるけれど、
同時に、相手との本来の『言葉のキャッチボール』を諦めてしまうことでもあるのかもしれない。
これまでの穏やかな環境に守られていた自分を自覚するとともに、
感情を置き去りにして「順応」することの危うさを改めて再認識した。
「慣れ」の中に自分を逃がすのではなく、この凍りついた「モヤモヤ」を、
自分の感覚を信じ続けるための羅針盤として大切に持っておきたい。
痛みに鈍感になることで自分を守るのではなく、
違和感を抱き続けることが、今の私に必要な「人間味」なのだと思う。
自分のルーツを呼び起こし、新しい環境に潜む課題を鮮明に見せてくれた、
この身が縮こまるような衝撃の瞬間に、感謝。