久々に心地好い疲労感に浸っています。
10月が聖母(マリア)月であったため、「ロザリオの祈り」というマリアを賛美し同じ文言を繰り返す儀式が日曜を除く夜に行われていて、そういうものが好きで足繁く通っていて、更に正式なやり方を信者さんに質問したら、同じく聖母月であった5月にも熱心に通っていた実績があった為に、その儀式を指揮されている女性信者さんに
「あなたもう出来るでしょ」
と先唱というその儀式をリードしていく役割の補佐を任されてしまい
「いえ、まだ勉強中で私には早いと思いますが…」
と断りをいれるものの押し切られてしまい、結局先唱補佐を仰せつかってしまいました。
基本人の上に立つタイプではない為にそういう事にも慣れていず、また普段はひとつの塊として覚えているカトリックの決まり文句を半分に分け、繰り返していく為、「ロザリオ」と呼ばれる決まり文句を唱えた回数をカウントしていく道具を使っていても途中で分からなくなってしまうのです。
もちろん緊張のせいもあります。
例えば
「恵みあふれる聖マリア、主はあなたとともにおられます、主はあなたを選び祝福しあなたの子、イエスも祝福されました。
神の母・聖マリア、罪深い私たちのために、今も死を迎えるときも祈って下さい。アーメン」
というひと塊を、「恵みあふれる…」という部分と「神の母聖マリア…」という部分とに分けて、先唱者二人で交互に唱えていく訳です。
リードしていく役割なので、私が唱える速度よりも遅く唱えている方がいれば、その方のペースに合わせ、私よりも早口の人がいれば私の唱える速度に合わせるよう少し声を大きく出して、私の速度に合わせるよう促したりもします。
特にそうするよう言われた訳ではなく、唱えるのがひとつにならずバラバラだと美しくないので、自分でそんな風に工夫していただけですが…。
そういう事に気を遣いながら、かつ混乱を招く二分割、そして緊張。
更に
「出席した時だけでよいから」
と言われたものの、妙な所で意味なく生真面目な私はなるべく出席しなきゃと思い込んでしまうのです。
天候の急変と夏の疲れからくる頭痛や風邪で休んでしまった日もありましたが、基本は出席、そしてそれが済むと時間を置かず週3で取っている夜のカトリックの勉強会に挑むためにかなりダウンもしました。
最後の方は「ロザリオの祈り」の先唱にはさすがに慣れましたが…。
それが昨日で終わり、やっと肩の荷が降り、そして本日は教会所属の神父さまの司祭になって50周年と、私が通う教会出身の神父さまの25周年の記念ミサと祝賀会がそれはもう盛大に行われました。
因みに50周年は金祝・25周年は銀祝と呼ばれます。
こちらはそれはそれは楽しく華やかなもので、そこで振る舞われた信者さんたち手ずからによる心がこもり豪華な料理の数々。
週6の「ロザリオの祈り」が終わり、それを何とかやり終えた私にとってもご褒美のような、楽しい祝賀会。
生意気で、それなりの考えがあり洗礼を受けないとほざきつつも何故か教会活動には熱心な私を面白がり可愛がってくださる神父さまの司祭生活50周年のお祝い、これが嬉しくない訳がありません。
今までのパーティではみた事がないようなムチャクチャな数の人々が集い、その誰もがニコニコの笑顔。
教会に通いだした頃は、神父さまが多用する「教会=共同体」という言葉の意味がよく理解出来ませんでしたが、今日ほどその意味が分かった日はありませんでした。
人はそれぞれで、好き嫌いは分かれるとは思いますし強要もしませんが、私は非常に良質な共同体に迎えいれて頂いたと思っています。
祈る事、それは必要以上に悩まない為の人間の知恵でしょう。
更には、祈り事を日々唱える事は、自分の心にそれを深く刻み込む為の行為。
それが叶う叶わないに関わらず、ちょっとした日々の行動にその祈りは反映されるようにも思えます。
その行動の積み重ねで人間性は高められていくのではないでしょうか…。
また、自分の上に絶対者を置く事で、人間は謙虚にもなれます。
残念ながら、人間は地球の、宇宙の一部に過ぎない、ホモサピエンスという動物でしかありません。
様々な自然の法則には勝てないのです。
自分が不完全である事を自覚し、完全になれない事を分かりつつも、完全に近付こうという意識が非常に大事なのではないかと。
理想と現実の乖離はよくある事で、そこで変に納得してしまい、理想に近付く事を諦めた時点で、人間性の成長もまた止まるようにも思えます。
現実を受け止める事も非常に大事ですが、そこで終始してしまうのは何か違うというのが私個人の見解。
そこで終始し上手く立ち回る事を称して「大人」だとか、「賢い」とか巷では言ってるようですが、ならば私は「子供」で「馬鹿」で結構。
この辺は単なる価値観の違いです。
ミッション系の高校の頃の経験から、あんなに嫌っていたカトリックに何の因果が助けられ、興味を持ち、勉学として、また同時にその臨床にも積極的に触れ、また今までの経験や知識と照らし合わせて分かったのは、そんな所でしょうか。
まだまだ道の途中。
それを確認出来た1日でした。