教会に行くと通夜のミサが行われていました。
そう言えば、朝のミサの時に信者さんの間で、葬儀云々の話しがなされていたのですが、忘れっぽい私はすっかりその事を失念し、『さぁ「ロザリオの祈り」っ!!』と意気揚々と教会に乗り込んだのでした。
しかも黙想もやろうと少し早めに教会に行ったもので、ミサは始まったばかり、平服ではありましたが、さいわい華美な格好はしてなく、ギリ聖堂内には入る事が出来る状態だったので、久し振りに通夜のミサに参列する事に。
外にいると風邪をひいてしまいそうでもありましたし。
それに加え、ミサ形式になり、仏教とは進行が違うキリスト教の通夜や葬儀は一般的な日本人には馴染みが薄く、戸惑う人も多くて、要所要所で司祭の呼び掛けに応えたり、賛美歌を唄う事の出来る人間が必要でもあるのです。
通夜・葬儀用の式次第に目を通しながら、教会に通い始めた頃の気持ちを思い出し初心に還り、また勉強会で教わる事を臨床で復習しつつ故人の人生に想いを馳せたり。
通夜ミサが終わり、「ロザリオの祈り」も終わり、黒っぽいの服でも無かったために遠慮した献花の代わりに人気が無くなった聖堂で故人に祈りを捧げて遺影に目を向けると見覚えのある方でした。
1年経たない間に教会で幾つもの葬儀に立ち会ってきましたが、一応知ってる人物が逝ってしまったのは初めての事です。
改めて、自分がお世話になっている場所が、喜びも悲しみもごった煮にした施設である事に気付き襟を正す想い。
「カトリック」は「希望の宗教」とも呼ばれるそうです。
しかし、皮肉な事にそういう宗教にまみれながらも私は人生に希望も持っていなけば、夢もありません。
先日「夢を書いて」と言われ、しょうがなく書いたのは「世界平和」でした。
人生に希望がないからといって死に対して魅力を感じる事もまた何故かないのですが…。
希望のない人間が希望を他人に与える事は出来ないでしょう。
しかし、こうしてまだ生きていて長崎時代から時間を経てひょんな事から再びカトリックとあいまみえる事になったのには何らかの必然性があるように思えます。
お坊さんの資格を持ち宗教学者の卵でもある知人曰わく「人間生きている限りは何かしらの使命がある」との事。
特に対立を起こす事もなく、異なる宗教や文化が共存・混在している特殊な地域に生まれ育ち、被爆2世でもある私が東京という世界でも有数の情報発信基地で今生きている理由には、ミクロでもマクロでも平和を訴えていく使命を課されているからのように思えます。
少なくとも私には他人に対して興味や関心があります。
理解しようとも許容しようともします。
手に負えないと感じない限りは仲良くしようともします。
実際、親しく、盛り上がってお喋りしていて、隣にいた人に
「友達?」
と尋ねられ、
「いや、さっき会ったばかりの初対面、名前も知らない」
と答える事はザラ。
人生40年と考えていた私にとって現在はロス・タイム。
そう思い開き直り幾つかの偶然が重なり、見る方向性によっては幸運そのものにうつるかもしれない現在の私は、それまで自分でも気付いてなく発揮してなかった能力をちょこっと披露しただけ。
相手に興味を持って話しを聴き話しを合わせ長所を褒める事くらいは造作もない事。
嘘はつけないたちなので、そこに偽りはありません。
そしてこれらの事には自分としては1割の力も使っていません。
義務としてもやってる訳でもないのでそのひとときを単純に楽しんでもいます。
あとはこれを広げていくだけ。
果たしてこれが平和に繋がるのかは不明ですが。
ただ他人に無関心で無愛想であるよりはマシでしょう。
「愛の反対は無関心」という有名な言葉もある事ですし。
あなたは他者に対して興味や関心を持ち交流を持ち出来るなら友達になろうとしていますか?
相手の好い部分を発見して口に出して褒めていますか?
「下ばかり向いていたら起き上がれなるぞ」と映画『シティ・オヴ・ジョイ』の劇中で語ったのはパトリック・スエージ。