秀吉による森林開発

 

戦国の争乱後

・城郭の建設や修築、寺院の建築に熱心で諸国に用材の確保を命じた。

・天正11年(1583年)大阪城の修築開始

・天正14年(1586年)聚楽第や方広寺仏殿の建設

・熊野、吉野、木曽、飛騨にも美濃・近江の大名や奉行を派遣して出材の要請をした。

・九州、四国、中国諸国のほか東北の森林地帯にも手を伸ばした。

 

・全国統一を成し遂げたことを背景に、森林を木材資源の供給源として利用した。

・出材事業をきっかけに、森林伐採の先進地であった畿内の杣たちが全国各地に移り住んでいった。

・斧を用いた伐倒や川の流れを利用した運材技術が伝播した。

 

徳川幕府の成立後

・関ヶ原の戦いに勝利した家康は、秀吉の直轄領の信州伊奈・木曽の森林を掌中に収めて用材の生産拠点にした。

・関ヶ原合戦の直前になって軍勢の進路を確保するため木曽氏山村氏、千村氏(いずれも秀吉によって流浪生活)に伊那路・木曽路・美濃路など東山道筋の攻略を命じた。

・功章として山村・千村・木曽衆に美濃国可児郡恵那郡に1万6千石の所領を与えた。

・木曽代官に山村甚兵衛(山川の一元支配)

・伊那谷代官に千村平右衛門(屋根板材の榑木の生産を請け負う)

・慶長11年に江戸城の修築開始。駿府城、名古屋城をはじめ各地で城郭建設。用材は伊那、木曽から伐り出された木材が大量に利用された。運材は天竜川の流れを利用。

・これに伴い武家屋敷、寺社、町屋など城下町整備。交通路の整備など土木工事も盛ん。木材需要の増大。

・木曽における用材伐り出しは、先進地帯の紀伊や伊賀から杣(伐木・造材を担当)日用(運材)を雇い入れとともに、美濃木曽伊那から集められた役人足を使った。

 

『森林の江戸学』徳川林政史研究所