徒然なるままに

悪い平和などない、戦争を長引かせるベクトルに加担することは止めよう!」 

加賀海 士郎

 前回は、戦火を鎮静させるにはと、「燃焼の4要素」について考察し、その内のひとつ…“燃焼の継続”を中断させる事、戦火も同じ理屈だとの結論を導き出した。

具体的には、田螺のつぶやきとして「悪い平和などない、戦争を長引かせるベクトルに加担する事は止めよう!」と言わしめる事になった。

 

 前の世界大戦で、無謀な戦争に突き進んだ我が国(民)は結局、人類最初の核兵器の実証実験の被験者にさせられ、良い戦争などない事を身をもって体験した唯一の国という事であり、それ以来、重い十字架を背負った民族なのだ。その民が声高に集団安全保障などを標榜している今、何をしなければならないかを、他にひきずられる事なく、自ら考えて行動せよと田螺はつぶやいたのだ。

 

「運命の民は戦争を長引かせるベクトルに加担するな!」

 しかし、そんなことを言っても現実に米国の核の傘の下で我が身の安全を保持している状況では、独自の判断でそんな事が出来るものか?我が国だけがその傘から離脱するよりも、むしろ韓国、フィリピン、台湾などの近隣諸国と連携し、より強固な集団防衛体制を築くべきだと主張する向きが多いのではないか。

 

 最近の政府与党の主張も、我が国の継戦能力を高めるために防衛予算の拡充を唱えている。外交的にも、自由で開かれたインド太平洋戦略構想を掲げて、ASEANなど近隣諸国だけでなく全世界的な仲間づくりに励んでいる。独・仏・ポーランド・バルト三国やNATO各国、英・豪・加・ニュージーランドやアフリカ各国についても民主主義や同じ価値観を共有する諸国に積極外交を展開しているように見える。

 

 それは自分たちの身を守るために集団的自衛をより強固で確かなものにしようとの努力に見えるが、それは見方を変えれば、軍拡競争を誘発することに繋がり、結果的に戦争への緊張を高めるという口実を権威主義の専制国家に与える事にもなる。

 とは言うものの現下の情勢で、田螺のぼやきが主張するように、継戦能力を高める方向に努めるのを止めて独自に平和路線を歩もうとするのは集団防衛力を弱体化して敵に弱みを衝かれる事になりかねないとの懸念が付きまとう。

 田螺のつぶやきは、そんな心配は無用で杞憂だと一蹴する。人間は第三次世界大戦に突入するような馬鹿な真似はしないと、楽観視している。何の根拠も示さずに人間の"善”性に希望(のぞみ)を託しているが、余りにも乱暴な話でとても賛同できないとの声が聞こえてきそうだ。

 

 さて、いま少し、その後の現実に目を向けてみよう。欧米などの支援が滞り、最前線の武器弾薬が底をつきそうになったウクライナの、このままでは祖国防衛戦に負けてしまうとの悲痛な叫び声。これには流石の米国議会も重い腰を上げ、棚上げされていた支援予算案の一部を借款と言う形に修正して、超党派の賛成多数で可決し、遅ればせながら武器弾薬や兵器の補充に動き出すとの事だ。

 米共和党のと言うよりも、彼の元大統領の「ウクライナを支援しても逆に米国が危機に陥った際に誰が米国を救ってくれるのか、いつまでも無償の小切手を切るべきではない」と言った米国第一主義を根強く支持する人たちが少なくないという事なのだが、遠い他国のことよりも自国民を保護するためにもっとすべき事がある、再びアメリカを偉大な国にしようというスローガンが無視できないという事なのだが、流石に武力による現状変更と言う横暴は許すべきではないとの主張が勝ったという事なのだろう。現下の人間にもそれ位の知恵が期待できるという証左なのかもしれない。

 筆者は甘ちゃんかもしれないが「人」という生きものの内奥に在る「ひと」としての善性がきっと最後には正しい選択をしてくれると信じている。と言うよりも、そうであって欲しいとの切なる希望(ねがい)なのである・・・。

 しかしそれにしても、「人」と言う生きものの性(さが)を考える時、何で人間(あるいは政治家)は、かくも臆面もなく嘘をつけるのかとの疑問が湧いてくる。

きっと自らの信念を実現するためには、その理想とする所を成功させるには他人を欺く事など何のためらいもないのかもしれない。そんな厚顔無恥の人種に最も大切な場面でのぎりぎりの判断を委ねても良いのだろうか?

 

 ところで最近の戦争と言うのは凄まじい情報戦のようだ。相手を欺く事は、戦わずして勝利を得る手段だと昔から言われている。だからトップリーダーは決して真実を語らないと考えた方が良いのかもしれない。

 実に恐ろしいことだ、敵を欺くのは勿論だが、自国民、同胞さえもプロパガンダで操ろうとする。そんなことを今更、驚いている様ではこの困難な時代を生き抜けるものかと笑われてしまいそうだが・・・怖いのはその事だ。

 人間が人間を信用できない、ギリギリの話し合いをする席でも懐疑的で決して腹の内を見せない、それが人間の本性なのか?そうだとすれば救いようがないではないか?核のスイッチに手を掛けた時、何が思い留まる抑止力になるのか?

 スイッチをONにしたら大変なことになる、その恐怖、結果を想像する事さえ難しい、その結果により、どの様な報いが我が身に降り掛かって来るのか?その想像を絶する恐怖だけが思い留まる抑止力なのだろうか?

         

 そうではあるまい、人間は時に愚かな振る舞いをする、そう思えることが少なからずある。しかし、仏教では、古くから「ひとの心の内には仏が宿る」と言われている。人間の性は生まれつき「善」か、はたまた「悪」か、論争は尽きない。

 キリスト教では「汝の隣人を愛せよ」と説き、自分に仇なす敵をも自分自身を愛するように許し愛しなさいと教えている。

 イスラームではどのように考えているかと言うと、イスラームもまた人間の不安を癒 し、人生を導く「救済宗教」であり、人類の「平等」と「相互扶助」の教義 も、又キリスト教の「平等」と「隣人愛」と変わ ることはない。神に服従し神の教えを遵守することによっ て、人間の精神が救済され心の平安が得られる とされている。

 また人類の「平等」と「相互扶助」の教義 も、キリスト教の「平等」と「隣人愛」と変わ ることはないという事だ。

 

 つまりは宗教的な考え方の相違が争いの種を撒いているかのような誤解が見られるかもしれないが、よくよく考えてみればいずれの教えも人が日常生活を安穏に営むためには如何なる振舞をすれば良いのか、何をしてはならないのかを説いているのであり、どの教えを見ても考えが違うからと言って他と争い他を排除してよいとはとは説いていない。なのに何故、かくも世の中には醜い争いごとが多いのか?

 今こそ、真摯に先哲の教えに耳を傾け、自らの採るべき途を定めなければならないのだろう。目下突出している政治的リーダーの中には、みずからが神格化を目指している様な振舞をしている者がいるようだ。彼等は一体、誰から何を学んできたのだろうか?甚だ心許ないが、少なくとも人間には「ひと」としての本性には、仏が宿り、隣人愛が在り、相互扶助の心ビルトインされているはずだから、最後の最期は正しい選択がなされると信じたい。

(完)