PHP(2024年5月号)の裏表紙より、

                        『風をはらむ』

                                           加賀海 士郎

 “お愛想に一ひら二ひら散る桜” 

 

 友人に誘われて奈良の玉川堤へ花見に脚を運んだ。奈良と言えばいつも春日大社の辺りへ

出かけることが多いが玉川堤と言うのは初めてだった。実は、元々は一昨日の4月3日に訪ねる

計画だったのだが、あいにくその日は雨に降られるとの予報に、兼ねてから予備日としていた5日

に延期したのだった。

 

 その為ひょっとすると桜の盛りは過ぎて、多くは雨に降られて散ってしまったのではないかと心配

したのだが、訪ねてみると見事な桜に加えて“やまぶきの里”と銘打っているだけあって、随所に

黄金色の花が迎えてくれた。何よりも嬉しかったのは、桜の巨木が小ぶりな川面へ張り出すように

枝を伸ばし満開の花を見せてくれたことだ。

 

 散らずに待っていてくれた、そう思うだけで感謝の念が湧いてきたが一抱えもあるような古木が

踏ん張るように川沿いの道端に河原へ腕を伸ばすような姿勢で並んでいる。淀川河川公園の

背割り堤を想い起す・・・、一筋の流れしかないが決して見劣りはしない見事なものだなどと感心

しながら手にしたPHP5月号に目をやれば、そこには標題と共に次のようなメッセージが書かれて

いました。

 「・・・前略・・・

その丘(おか)に風があるのか、どんな風が吹(ふ)いているのかを知るのには、丘に立つ旗のはた

めく様(さま)を見るしかない。

 風は人の心の中でも吹いている。しかし、それまた容易に見えやしない。

 

 心の中の丘陵(きゅうりょう)で、大きな意思が宿るとき、旗ははためき、人は何かをし始める。

一人の胸中の一陣(いちじん)の風が、となりの誰(だれ)かの熱砂を巻き上げ、気づけば多く

の人に熱風を送る。いつしかそれが社会を変える台風となっていくかもしれない。

 

 滅多(めった)に起こりはしないだろう。けれども、個人ならず集団の思いとしても風は必ず

宿るものだ。明日には明日の風が吹くように、私たちは私たちの求める風を、いつかその風を

はらむ機会をつくっていこう。

 

 何かを動かし、何かを変える。風神が持つあの大きな風袋(かざぶくろ)に、自分の情熱、

みなの思いを精一杯(せいいっぱい)はらませて、人生にせめて一度は、大きな風を起こし

たい。」

 そうだ、いつだって青春なのだと何度ふり返り自分に言い聞かせてきたことか。年は取るさ、

毎年、みなと同じように、肉体は衰える、少しずつできることは少なくなるだろうが、しかし、

まだまだできることは有るはずだ。心の中の丘陵はなだらかなまま横たわっているのか、そこに

どんな旗がはためくのか、人生まだまだ先がある、何が起こるか分からない。

 

 田螺のぼやきもきっといつか誰かに響き大きなうねりを巻き起こすに違いない。そのためには

発信し続けることだ、だが、何を発信すれば良いのか?単なるボヤキでは駄目だ、風もうねり

も起こるまい。そもそも自分は一体何をしたいのだ、時間はある、落ち着いて考えてみよう。

 

 待てば海路の日和ありとかいう、慌てることはない、これまでも色々考えて発信してきた。

まずはそれを続けることだ多分、最終ステージに近づいているはずだ。          (完)

                            

※「田螺のぼやき」とは、学水舎代表語録のひとつ「序『ごまめの歯軋(はぎし)り、田螺(たにし)のぼやき』 | 加賀海士郎の部屋❝学水舎❞ (ameblo.jp)」のこと。