徒然なるままに“北国の春”

加賀海 士郎

 六甲の峰 霜降りに春の朝

 今朝の外気は0℃、体感温度は1℃とのこと、寒いはずだ。昨日と今日と寒戻りだなと、思いながら、今日は出かけるところが有るので渋々床を離れた。いつものように歯磨きと洗顔を済ませて、日課のごみ捨てと新聞の取り込みに玄関ドアを押し開く、…強い冷気がドアを開けさせまいと無駄な抵抗をするが、身体を預けるようにして外へ出た。

 

 鼻水が垂れて来そうになるのでハンカチを取り出し、上唇の辺りを拭う。手袋をして出てきたのだが指先が締め付けられるように凍みる、背筋が寒くなり身体が丸まりそうだ。ビルの狭間(はざま)から六甲の峰が遠望できる。

 

 オヤッ!雪かしら?そう言えば昨日の甲子園、高校野球の熱戦を邪魔するように雪が降り出していた。北国は相当吹雪いていたようだが、今朝の六甲にはその名残りが霜降りになっているらしい。気を付けながら雨上がりの階段を、生ごみの袋を手にして歩いて降りる、毎度のことだ、老いた体力を確かめるように毎朝のこの時間だけはエレベータを使わずに降りるのだ。

 ごみを捨て終り、朝刊を取り出して帰還するときも、7階まで百段のステップを歩いて昇るのだが、流石に傘寿の身には堪える。肩で息をするように、それでも途中で休むことなく昇りきる、息を調えるのに暫くかかる。老化は誰の身にも、いつの間にか忍び寄るものだ。

 その日の午前中は早々に出かける予定があった。新聞を読み、朝食を済ませて朝のニュース番組に目をやりながら出かける準備をする。今日はフランス文学講座・・・サルトルだが、自慢じゃないがサルトルはおろかフランス文学などまともに読んだ記憶がない。それなのに何故フランス文学なんだ?

 もう3年ほど前から続けて受講している半年ごとの短期講座なのだ。若い頃、碌に文学に接していなかったことが頭に引っ掛かっていて前々からロシア文学を知りたいと考えていたのだが、あいにく講師に恵まれないのかその機会が無かった。そんな折、フランス文学講座が開設されたのを機に、フランス文化を知るのも好いかもしれないと受講することにしたと言う訳だ。

 

 しかし、実際の所、著名な作家の書物のさわりを拾い読みするような講義は、これから読もうとする人に良いとっかかりを与えてくれるだろうが、どっぷりと読んでいる時間がないので、いま一つ消化不良にならざるを得ない。実際、他にも読みたい書籍が有るのだから仕方がない、フランス文学には失礼かもしれないが、それでも、フランス文化と言うかフランス人の気質や考え方が何がしか伝わってくるのだから、それはそれで意味が有るのだ。勿論、大学受験の様な系統立てて知識として整理し身に付けようなんて考えていないから、話の筋も登場人物も、その場限りで霧のように雲散霧消するのだが、その講座で友人に会い、昼食やコーヒーブレイクしてひと時を過ごし、軽い会話をすることが愉しみになっている。

 目下は、フランス文学よりもトルストイの「戦争と平和」を二度読みしているのだ。他にも量子科学の専門家が著した「ゼロポイント・フィールド仮説“死は存在しない”」と言う難解な書物にも接し、死後の世界を読み解こうとする方が関心事なのだ。

それに、何よりも、トルストイの哲学書ともいうべき作品を、彼の国の権威主義者が、「勉強し多くを学んだ」と豪語しているのを耳にして「何をどう学んだのか?」とても信じられず、自分なりに、「愚かな戦争がなぜ起こるのか」を考えてみたいと思ったのが、「戦争と平和」を読もうとした動機だった。

 

 今の所、ほぼ二度読みを終了したが、例のロシアの権威主義者が何を学んだのかは、さっぱり分からない。恐らくずっと昔、帝政ロシア時代の偉大なロシアを復興させたいという野望を強固なものにしたと言う事ではないか。極寒の大地を背にして、自然に逆らわず幾度となく外敵を撃破したという史実を曲解して、彼も又、英雄の途を歩もうと執念を燃やしているのではないか。

 

 雪国の人々が厳しい自然に耐えて春を待つと言う生き方は、筆者の故里でも共通しているところで、辛抱強い気質はむしろ誇らしいくらいだが、今は軍事大国となったロシアの侵攻作戦を正当化し賛美するネタにはなるまい。そのこと自体は、ロシアの大衆も分っていることだと思うが、なぜ反戦の機運が盛り上がらないのだろうか?

 彼の言説を信じる方が自分たちの生活を安定させ恐怖を取り除いてくれると考え、彼の大統領を支持し続けているのだろうか。

 それとも、恐怖を抑圧した政治戦略に抗しきれないという事なのだろうか?本当の幸せは他を抑圧し犠牲にすることでは決して得られないと言うのに、そのことからは目を背けるという事か?あの偉大な文学者や哲学者、科学者など数多の偉人を生み出した国や民族だとはとても思えない。

 

 はてさて、『戦争と平和』の中で語られている哲学をどう活かせて行けば好いのか、世界を分断する戦争は、いつ終焉を見せるのか、その日はまだまだ遠い先のことなのか、他人事ではないのだが、我々はこれからどう生きれば良いというのか?

 今を生きる我々に重たい疑問が投げかけられているのだ!

老い先短い身に、果たしてその答えが見つけられるのか心許ない。

 

 つくづく、人間と言う業の深い生きものの性(さが)を考えさせられる。

(完)