PHP(2023年1月号)の裏表紙より、

                                      『答えること問うこと』

                                                加賀海 士郎

 木枯らしに背なを押されて年の暮れ” 

 

 いつの間にか年の暮れ、今年も欠礼の報せがぽつりぽつりと届き、そろそろ賀状の準備が気に

なりだした。街は気の早いクリスマスセールや新春を迎えるお節料理のPRが目に付き出した。

 

 また、同じことの繰り返しなのかと気乗りしない我が身は何事につけても動きが鈍くなって来た

ようだ。近頃は、年に一度の賀状さえ引退宣言する人が少なくない。

 

 無理して出さなくても如何ほどのことがあるかと思いながら、滅多に逢う機会のない友のことを

想えば年の暮れの近況報告ぐらいは、元気な内は欠かしたくないと思い直しながら届いたばかり

のPHP1月号の裏表紙に目をやれば標題と共に次のようなメッセージがありました。

 「試験が始まり、問題用紙が配られる。“始め”の声に用紙をめくって問題を見る。緊張(きんちょう)

が走る。問題をゆっくり眺(なが)めながら、学んだ知識を整理して解答に取りかかる。こうして学生

時代、どれだけの問いに答えてきたことだろう。

 

 大人になると、問題用紙は配られない。その代わりに、仕事の進捗(しんちょく)一つひとつが大問題、

日々対応にかかり切りになっていく。

・・・中略・・・

 それが悪いわけではないけれど、そんな人生にどっぷりと浸(つ)かっている今だからこそ、みずから

問う、みずからへも問う姿勢が必要ではないだろうか。

問えばたくさんの意義が現れる。知るために問うのはもちろんで、それが理解を深め、考えを究(きわ)

める。

 

 またみずからを開放するためにも、問うことは重要だ。やりたいことを忘れずに、やるべきことばかりに

左右されないように。本当の自分とはいったい何者なのだろう? 人生の主役は自分。そうあるために、答えると同時に問うことを怠(おこた)ってはならない。」

 その通りと言いたいところだが、果たしてそうか?これまでも行くたび問うてきたか、何のために生まれて

きたのか?本当に人生の主役は自分なのか、自分のために生きているのか?

 

 また堂々巡りなのか答えの見つからない問・・・我を捨てよ、我にとらわれるな、色即是空、一切が

空なのだ・・・先哲はまた、空即是色と説く・・・いったい何なんだそれは?

 

 そして辿り着いたのが“心配するな、成るようになる。ただひたすら悔いの無いように生きよ。

一度きりの人生”

  だが、それでは、それだけでは、“命を大切にしろ”の答えには何かが足らない、自分だけの人生を

 生きることになってしまう。他に何か、この世に生まれてきた目的があるはずではないのか?

 この悠久の生命(いのち)の流れ、その大河は永遠に続く、万物の命は皆つながって大河を成して

いるのだ。否、大河を成すために繋がっていなければならないのだ。そのために命の灯を灯すのだ。

 

 図らずも受け継いだものをまた次の世代へと継承する、その為に生きるのだと15年前に早逝した

後輩が教えてくれたのを思い出した。彼は資産家の跡取りだった、だから、彼には守らなければなら

ないものがあったからだろうと私はその時、軽く受け止めていた。

 

  いまにして思えば、守らなければならないのは、この掛替えのない生命なのだ。 (完)