PHP(2023年8月号)の裏表紙より、

                                                          『心根』

                                                                             加賀海 士郎

 “猛暑日や梅雨明け恋し蝉の声” 

 

 二日ほど前の朝の散歩道、日がのぼり始めた頃、ふと足もとに裏返しになった蝉に小さな蟻が

群がっているのを見つけた。夏草の上には銀色に輝く露が載っていた、夜中に雨が降ったのだろう

か。今年の梅雨入りは例年より一週間以上も早かったとは言え梅雨明けにはまだ少し間がある

はずだが、もう蝉が這い出して来たのか、それともお前の恋物語は既に終わったのか。

 

 短い一生だが世に出てすぐに蟻の餌食(えじき)になるとは、何とも哀れな一生だと思ったが、

それは人間の目から見た話だ。当の蝉にとっては、その死は案外、安らかで満足のいくものだった

のかもしれない。何よりも熱烈な愛を語り恋が成就して大満足の上で眠ったのかもしれないなどと

考えながら帰宅して、手にしたPHP8月号の裏表紙には標題とともに次のようなメッセージが書い

てありました。

 

 「人間は善い人や悪い人、賢(かしこ)い人に愚(おろか)かな人、情熱的な人や冷静な人など、

たくさんの人に分類されるものではない。

 

 一人の人間の中に、たとえば正直な心が宿っている時間が長いときもあれば、不誠実な心に

支配されている時間が長い場合もあるように、たくさんの心が顕(あらわ)れては消えていく。

 

 今、戦争をしている人の中にも生まれて初めて残忍(ざんにん)な心に染まった人がいるだろうし、

良心の呵責(かしゃく)に耐(た)え切(き)れず、血の涙(なみだ)を流している人だっていることだろう。

 

 ままならない、まして心ならず自分の信念に反した仕事を強(し)いられるのは悲しい限りである。

世界や社会が複雑になって、表面から推察できない不条理が、胸の奥(おく)の美しい心根を傷

(いた)めつけてはいないか。

 

 怒(いか)りが怒りを呼び、心の中が暴風雨にさらされることもあるだろう。たとえ一時そうなったと

しても、人の心根に宿る善性は必ず復元できると信じたい。・・・後略」

 人の心の内、その感情というものは、きっと日々のお天気のように移り変わるものなのだろう。いつ

も穏やかでありたいと思っても気圧が変化するように、その気が体の中に入り込んでくるのだろうか、

それとも周りの空気が悪い方に変わっていくのだろうか、世の中の一切の出来事が気に変化をもた

らし体の奥に流れ込み人の心を操るように行動に変化をもたらすのだろうか。

 

 一体、心根とは何なんだろうか、人の心の根っこの部分ではないのか。

“三つ子の魂百まで”と言うではないか、ころころ変わって良いものではあるまい。しかし、気持ちと

いうものは、気の持ちようであろうから、意識して変えられるもの、あるいは環境や条件によって変化

するものなのだろう。

 それに対して、心根と言うのは、いわゆる性根と言われる根っこの部分だろう。それはやはり性

(さが)であり、生まれつき持っているものではないのか、天から与えられたものであり、心の奥底に

あるものではあるまいか。

 

 それ自体は容易に変わらないが、学び鍛え磨かれることによって良くも悪くも変化するものなの

ではないか。短い一生で終える蝉にもより良い子孫を残す使命があり心根があるのかもしれない。

 天寿を全うした蝉は満足して蟻の餌食になる事を受け容れたのかも?…(完)

【続き】※PHPの裏表紙のメッセージに異を唱えている訳ではありませんが、今回の締めが誤解を招きそうなので以下に補足したいと思います。

 

 人の心の様相は周囲の人間関係や環境条件、その日の出来事などに左右され、次々と移っていきます。それはまるで移ろい易いお天気のように、時によっては全く先の予想がつかないことさえあります。

 

 これまでとは人が替わってしまったような印象を受けることさえあります。

「あんなに良い人だったのに、なぜこんなことをするのだろう?」と信じられなくなり、すっかり変わってしまった心根が全く理解できなくなります。

 

「・・・たとえ一時そうなったとしても、人の心根に宿る善性は必ず復元できると信じたい。・・・人の絆(きずな)や家族や社会が分断されないように、忘れがちになる自分の内なる無垢(むく)な心根だけは守っていこう。心根を決して腐(くさ)らせてはいけない。」

と、裏表紙のメッセージは続きます。

そうです、本当は、心根そのものは変わっていないのです。その上に別の衣装をまとったように振る舞いが変わるだけなのです。それは一時の気の迷いのようなものですが、そこから脱皮するのは容易ではないときがあります。

 

 人の心の奥底には、誰にも「素直なこころ」が潜んでいます。悩み苦しまなければならないとき、深く息を吸ってみずからの胸の内に問いかけてみることです。生まれる以前から脈々と受け継いできた「ひととしての倫」を「素直なこころ」に尋ねるのです。

 

 きっと、あなたは最善の途を見つけることができるはずです。みずからに素直に問いかけ気づきを惹きだす事が大切です。人には皆、そんな本当の心根が植え込まれているのです。深く真剣に問いかける事が大切です。

 それは決して自分勝手な判断をして軽挙妄動に走る事とは違います。みずからの胸の奥に棲んでいる「ほとけごころ(仏心)」を呼び覚ますということです。決して難しいことではありません、その光明が見えるはずです、見えてくるまで問いかけてみてください。誰にもある仏心を信じたいと思います。…(完)