『期待はずれ』
加賀海 士郎
“萎(しお)れ行くさつきつつじに老い重ね”
玄関前の小公園の生垣になっているさつきつつじが爽やかな真っ白い花をつけたのはつい先日
のことだと思ったがいつの間にか汚れたハンカチのような薄茶色のよれよれの花になって緑の葉や
枝にしがみつくように垂れ下がり始めた。
真っ白なハンカチだっただけに何とも哀れを感じずにはいられず、つい、花の色は移りにけりな徒に
・・・の一首を想い出してしまった。聞くところによれば、小野小町の晩年はかなり長生きだったらしい
が、一説には野垂れ死にしたとも伝わるほど哀れな生涯だったとのこと。あの清々しい白い花も凋落
の一途を辿り、没年も入滅の地も分からず、誰に看取られることもなく果てた名だたる美女の小野
小町と重ねて想像するのはあまりに哀しい。
老いるということはひょっとすると死それ自体より忌み嫌われることなのだろうか?いつ死神が眼前に
立ってもおかしくない年になった我が身と重ね、老いることの重大さを考えさせられてしまった。老いも
死も誰にも必ず訪れる自然の理なのに、醜い老いに耐えられず自らの死を選ぼうとする気持ちが
なんとなく分かるような気がするなどと思いながら朝刊とともに届いたPHP6月号の裏表紙には標題とともに次のようなメッセージが書いてありました。
「何かを成(な)し遂(と)げるために計画を立てる。翌日から力んで励(はげ)んでみるが、昨日も
今日も届かない。不足分を明日にのせて、さらにがんばっても、やっぱり達成には至らない。
気が付けば、計画不履行(ふりこう)。思えば前にも同じことがあったような。不甲斐(ふがい)ない
自分に腹が立ったり、自分は期待はずれの存在だと憂鬱(ゆううつ)になったりする。・・・中略・・・
聞けば世の中の人間関係の難題の多くは、たがいが勝手に抱(いだ)く期待が失望に変わること
に端(たん)を発しているという。こんな思いをしないためには、期待しないことが最善策だというのも
うなずける。
しかし、本当にそれでいいものか?人間とは欠けているところに人間味があり、欠落した部分を
たがいに補い合うところに、共同生活の味わいがあるのではないか。
期待はずれは今後も経験するに違いない。けれどもめげずに受け止めよう。いつか真剣(しんけん)
に応(こた)えてくれる努力をたがいに期待しながら。」
期待は往々にして裏切られるものだがそれでも期待すべきだというのだろうか?何か引っかかる
のだがそれはなぜだろうか?期待するというのは信頼の証ではないか、自分自身のことであれば
端から信頼できるはずだから期待するもしないも決心しやすいだろうが、相手が他人であれば
どこまで信頼を寄せることができるかということになるから、無闇に信頼できるものではあるまい。
そこが引っかかるのだろう、この世知辛い世の中を賢くわたるには、期待もほどほどにしなければ
なるまい。人生を味わい深くするためなら多少の期待はずれには耐えられるが、それは結果に
責任が持てる範囲のことであり、励ましのつもりで勝手に期待して裏切られる程度ならまだしも、時にそれが相手の重荷になり苦しめることになっては道理に適わぬことになり無責任というものではあるまいか? (完)