PHP(2023年4月号)の裏表紙より、

                       『泥(どろ)だんご』

                                                    加賀海 士郎

 六甲も啓蟄(けいちつ) なりや春霞(はるがすみ)” 

 

 いつものように朝早くからごみ捨てと新聞の取り込みに行こうと玄関をでると、眼前のマンション

建屋に邪魔された視界の隙間に横たわる六甲の山脈(やまなみ)が見えた。今朝は少し暖かく

なったのか、六甲は春霞に覆われたように心なしか揺らいで見える。

 

 それはまるで緑の大きな虫がいまにも動き出すかのように息づいて、…そうか、啓蟄なんだ、

いよいよ春だね、お前も動き出すのかい?

 まさか六甲がモスラ(昔の怪獣映画の巨大青虫)のように動き出すことはあるまいが、季節は

暖かい春を待ちわびた虫たちが目を覚まし、草や木もきっと芽吹き始め動き出すに違いないなど

思いながら朝刊とともに届いたPHP4月号の裏表紙には標題とともに次のようなメッセージが

書いてありました。

 「子どもたちが砂場で夢中になってつくる泥だんご。最初は無邪気(むじゃき)な砂いじりが、

気持ちを込(こ)めて丸めていくと、不思議なことに、少しの工夫(くふう)でより丸くなっていく。

そして、水分と砂を加え、表面を磨(みが)いていけば、だんごはほぼ球体となり、かつ光沢

(こうたく)を帯びるまでになる。

・・・中略・・・

 

 泥と砂さえあればわくわくできる子どもの集中力の何と素晴らしいことか。いや、かつては誰

(だれ)もがそうだったのだ。

 今、心配なのは大人のほう。目標がたくさんありすぎて、わくわくできない人が多いとか。責任

から逃(のが)れたい、失敗したくない気持ちもよくわかる。けれども、そんな今こそ泥だんごづくり

の極意(ごくい)を思い出すべきではないだろうか。

 

 大事なのは無心になること。泥だんごをつくるように、がんばれる自分を信じながら、無邪気

に挑戦(ちょうせん)を続けていきたいものである。」

 幼いころの砂遊び、夢中になって熱中した砂いじりが大人になってから何かと頑張れる集中

力や失敗する悔しさを教えてくれ、諦めずに挑戦する知恵を授けてくれるというのだが、はて?

待てよ、砂遊びなんてどこでしたっけ?

 母親に見守られながら公園や遊園地の砂場が頭の中に浮かぶが、筆者の幼少期には

そんな優雅な光景は記憶にない。僅かに夏の日本海の砂浜の海水浴シーンが思い浮かぶ

ぐらいだ。

 

 母親が年老いてたせいもあるが、何よりも金沢の下町育ちには近場にそんな環境が少な

かった。子ども時代はもっぱら近所の悪がき連中を集めて戦争ごっこや泥警などの遊びに

熱中していた。

 

 旧いフランス映画にわんぱく戦争というのがあったが、あの屈託のない子どもたちの日常に

近い生活だったと思う。いまのようにゲーム機やスマホが身近にあり遊び仲間はもっぱら同学年

の横の繋がりという世界ではなく、ガキ大将を中心にちょっとしたヒエラルキーが形成された、

むしろ上下関係の厳しい別世界だった。

 そこではいっぱしの大人のように男らしくあれ、弱い者いじめをするな、仲間を大切にしろ

といった鉄則があった。いまならさしずめジェンダーフリーに反する旧い考え方だと非難されるが、

昭和の子どもたちは概ねそうやって「仁や義」、「忠や孝」なども、先輩が後輩につなぐ形で

教え教えられたのだ。それは砂遊びの比ではないと思う。  

                                                                                                                     (完)