PHP(2023年3月号)の裏表紙より、

                         『弥生(やよい)の空は』

                                                   加賀海 士郎

 

 “慎ましく春を告げるや鉢の梅”  

 

 このところ寒い日が続き、朝の散歩も滞りがちになっていたが、いつも通る路地裏に身の丈

三尺ほどの梅の鉢植えが置かれているのに気が付いた。細身で背が高くどこかひ弱な風情

のそれは、葉がほとんどなく薄紅色の花を幾つも付けて寒風に耐えていた。盆梅というほど

肩ひじの張らない鉢植えだが持ち主には愛おしい自慢の一品に違いない。

 

 大抵はこの路地を抜けて裏口から自宅に戻るのにどうして梅の開花に気が付かなかったの

だろうか、灯台下暗しという事かもしれないが自然というのは生真面目なものだ、“東風吹かば

匂ひをこせよ”に似て、時が来れば忘れずに花開くものなのだなどと感心しながら帰宅して

手にしたPHP3月号の裏表紙には標題とともに次のメッセージがありました。

 

 「三月は期が革(あらた)まるときでもある。いろいろな目標が収束を見て、また新たな目標

定められていく。数字だけのことではなく、人びとの努力も同じように結果が残り、届かなかった

悔(くや)しさやみずからを超(こ)えた喜びが交錯(こうさく)する。

・・・中略・・・

 

 例年、桜の花芽は夏には形を成しながら、秋には休眠(きゅうみん)している。そこから桜が

見事開花するには条件があり、すなわち、休眠中の花芽が、厳しい冬の寒さにしっかり晒(さら)

されなければいけない。

 いわば寒気こそ花芽を蕾(つぼみ)へと促(うなが)し、満開の日を演出するのである。切れ切れ

に舞(ま)う花びら一枚もそうした過程を経てのものとは、精妙(せいみょう)な自然の摂理(せつり)

にただ驚(おどろ)く。

 

 人間も同じではないか。雌伏(しふく)の時があってこそ雄飛(ゆうひ)の時が来る。多くの若人

(わこうど)らが精進(しょうじん)した実力を以(もっ)て、勇躍(ゆうやく)社会に旅立つ姿、これぞ

春爛漫(はるらんまん)と言えよう。」

 もうすぐ年度末、この一年の活動を振り返り、これからの目標を設定し行動計画を策定する。

いまも多忙な日常の中で立ち止まって明日の行動を考え、まるで当たり前のようにこの一年、

何ができて何ができなかったのか、これから何をどのようにすれば良いのか考える。

この時期は誰もがそんな生き方を見直し、改めて歩み始める時期なのである。

 

 私たちは自由に自分の人生(生き方)を選べると教えられてきた。これまでの人生を振り返った

とき、どこの学校を志願して何を学び、卒業して何を生業として生きるかはみずからの意思で

選んで今日まで生きてきたが、しかし、本当に自由だったのだろうか?そしてこれからも自由に

人生を歩めるのだろうか?

 確かに、今、この時、右を向くか左を向くか、手を挙げるか挙げないかは誰にも制約を受け

ませんから全く自由です。

 しかし、今ここに自分が居ることは、これまでの日々の歴史の積み重なりであるが決して自由

な選択の結果ではなく、むしろある種の定めであり正に運命的必然なのだ。

 

 それぞれがどこに生まれどのような環境で育ったかは決して自分の自由意志による選択の結果ではなく、その後どう生きたかもその都度の選択肢は決して多くなかったはずであり、同様に、この先どう生きるかも自由ではなく可能なのは今を悔いのないように生きる努力をすることだけではあるまいか。               (完)