PHP(2022年12月号)の裏表紙より、 

                                                    『生きてあり』

                   加賀海 士郎

 “冬の宵 妖しき月の身を隠し” 

 

 折しも頃は立冬、朝の冷え込みは指先に沁みて散策にも手袋が欲しくなってきた。淀川

近傍の運河には朝早くから巣から抜け出てきたヌートリアの一家が水辺に揃って朝餉を摂って

いる最中らしく、何とも微笑ましい姿があった。

 

 プラタナスだろうか、街路樹がまだら模様に色づき艶やかな衣装を身にまとっているようだ。

足下には落葉が囁くような音を立てる、いよいよ冬の到来なのだ。その日の夕刻には一転して

皆既月食。月が地球の影に隠れたのだが、何とも不思議、真っ黒にならず、焼け焦げた煎餅

のような橙色の満月が中天に浮かぶ。

 ふと昔、ハレー彗星に憧れて夜の空を我が子と一緒に見上げたことを思い出した。永年待ち

待った一生もののハレー彗星は期待外れで見つけることさえままならず、がっかりしたものだが、

幾つになっても壮大な天体ショーには心躍らされるのだどと思いながら、手にしたPHP12月号

に目をやると裏表紙には標題とともに次のようなメッセージがありました。

 「映像の進歩はめざましく、一瞬(いっしゅん)という時間でさえコマ送りでゆっくり解明すること

できる。時を競う試合の判定も容易に決着がつくし、事故や事件のなりゆきも一目瞭然

(いちもくりょうぜん)になったのはすばらしい限りである。

 

 一方で、コマ送りが可能になった今だからこそ、時を刻む切なさもよけいにつのる。

“この瞬間”についてしまう勝負の分かれ目、人生の明暗。・・・中略・・・

 

 天地開闢(かいびゃく)以来、時は一秒たりとも止まったことはない。時の流れは無情であり、

ことさら人間には酷薄(こくはく)常に手遅(ておく)れの感を与(あた)える。

 

 だからこそ、この瞬間にしっかと生きている貴(とうと)さを、私たちはもっと知るべきではない

だろうか。社会は不条理にあふれ、肯定感(こうていかん)がない人が多いのはうなずける。

それでも今、生きてあるのを幸せと呼ばずして何と言おう。その自覚から、明日が、そして新しい

年が希望とともに意味を持つのである。」

                                                                                  

 

 成る程、時の流れは脈々と続きとどまることがない、きっとこれからも続くに違いない。人の一生

は、その流れの中では一瞬のきらめきにも満たないかもしれない。76年に一度巡ってくる彗星は

見逃すと二度とお目にかかることはできないのだ。このコマ送りのような人生を悔いのないように

生きるためには一分一秒たりとも無駄にする訳にはいかないのかもしれない。

 

 確かにそうかもしれない、がしかし、そんな息の詰まるような生き方ができるのだろうか?いや、

できるはずがない。緊張と緩和、静と動、陰と陽、明と暗、光と影、マイナスとプラス、どちらか

一方が欠けると他方も消滅する。

 

 但し、この二者は共に在るのであって単独では存在し得ないのだろう。ひょっとすると、いつか

「時」も反転して逆流するのだろうか?振り子が極限まで振れると戻ってくるように簡単な話では

ないが宇宙は膨張し続けているというのも俄かには信じ難い話だ。

 

 どちらにしろ、自分の人生の中で結論にお目にかかれるわけではないのでここは一番、問題

を先送りにして生きるうえで何が一番大切かを考えてみる。

 

 結局はいまこの一瞬を大切に、生あることに感謝し、納得のいくような時間の使い方を心がけ

ることなのだろう。生身の人間なのだから、素直に問いかければ、その身体の深奥にビルトイン

された、命とともに付与された贈りものが応えてくれると信じたい。      (完)