PHP(2022年11月号)の裏表紙より、

                                              『旅心(たびごころ)』

                                                                                     加賀海 士郎

  “柿みのり故郷(くに)の友垣(ともがき)想い馳せ” 

 

 朝の散歩道、鮮やかに色づいた柿の実が目に入る季節になった。いつの間にか肌寒い風が

半袖の腕をかすめる、木枯らしというには早すぎる、空はどこまでも高く青い。田んぼの稲穂は

黄金色の首(こうべ)を垂れて穫り入れを待つばかりだ。

 

 どうやら台風シーズンも無事やり過ごせたようだ。故里はとっくに収穫を終え、もう冬支度を

している頃だろうか、そう言えばすっかりご無沙汰している少年期の友垣は恙(つつが)なく暮らし

ているだろうか、棟続きの二戸一住宅、無二の親友の隣家には大きな柿の木があった。

 

 毎年、秋には甘い柿の実をつけ、一階の屋根に出て自由に食べたのが懐かしい。今は二戸

共々に住人が変わり、生家はすっかり様変わりしてしまった。一緒に遊んだ近所の悪餓鬼は

どうしているだろうか、誰も皆、古稀を過ぎているだろうが便りがないのは好い報せ、最年長の

二人が健在だからまだまだ元気にしているに違いないなどと思いながら手にしたPHP11月号に

目をやると裏表紙には標題とともに次のようなメッセージがありました。

 

 「人が旅心を抱(いだ)くのは、人生で見ておくべき風景が決まっているからではないだろうか。

それが蒼天(そうてん)の下(もと)、秋の実りにあふれた里山なのか、行ったことのない田舎町

(いなかまち)なのかは分からない。ただ心が旅にそそられるのは一つの本能であるに違いない。

・・・中略・・・

 

  誰(だれ)と出逢(であ)うのか、どんなことが起きるのか、心に刻まれたものはすべてわが体験、

わが風景。人生にとって必要な、かけがえのない思い出になる。そして、実際、そうやって日々

を重ねてきたのではないか。

 

 世の中は移り変わり、また自分自身の環境(かんきょう)も変化する。したがって、時には窮屈

(きゅうくつ)な生き方を強(し)いられる。

 

 しかし、何かを見聞きし、自らを癒(いや)し、勇気づける手立てはいくらでもある。

生を終える直前、人は己(おのれ)の人生を瞬時(しゅんじ)に回顧(かいこ)するという。そのときに

見るべき風景を見ていなければ残念極(きわ)まる。だから旅に出よう。せめて心だけでも。」

   

 

 確かに何かの折にふと旅に出てみたくなることはあるが、人それぞれ見ておくべき風景が決まって

いるというのは、俄かには信じがたい。この世に生を享けるとき、いつ、どこで、どのような環境に

生まれるかは選べない。だから人はそれを運命(さだめ)として受け容れる。

 

 時になぜ自分は他人と違うのだろうかと思い悩むこともあろうが、自分を自分として生きて行く。

中にはそうでもない人もいるらしい、LGBTなどという言葉も知らずに生きて来たから、背がもう5cm

高ければと思い悩んだことが今では懐かしい。

 

 すべては天恵なのだ。そう思えば、見るべき風景が定まっていてそれを見ずに棺桶に足を突っ込むのは残念極まりないとは欲が深いのではないか?

 

 もし心残りがあるとすれば、ピラミッドや万里の長城でもなくロンドンでもパリでもない、幼い頃、

一緒に遊んだ友垣の元気な姿を見届けていないことだ。

 機会があれば彼らと満面の笑みで再会する風景に浸りたいものだ。     (完)