PHP(2022年6月号)の裏表紙より、

                        『命から考える』

                                                    加賀海 士郎

 “春去りて また母の日やカーネーション” 

 

 今年もまた母の日がやってきた。存命であれば120歳になるが他界したのが今の筆者の年頃

だから随分、昔のことだ。そう言えば生前の母に母の日だからと言って何かそれらしいことをした

のだろうか、思い出そうとしても記憶が曖昧で思い出せない。

 

 何しろ物心付いた頃には母は老いていたと言っても50代半ばだったのだが、同級生のお母さん

が大概は30代前半だったので母というより祖母の観があり、学級参観などに参加するのを筆者

は極度に嫌っていた。

 働かなければならなかった母は滅多なことでは学校などへ出向くことはなかったし、通信簿さえ

も先生から直にもらって帰ることがほとんどだったから母の日なんて頭の隅っこにもなかったのかも

しれない。

                            

 大学を卒業する頃には母への感謝は忘れることがなかったが早くから親元を離れて自立した

こともあり、その気持ちを形に表すこともなく“孝行のしたい時分に親は無し”となった。毎年、この

時期には親不孝を思い知らされているが、今更悔いても仕様がないなどと思いながら朝の散歩

から帰って手にしたPHP6月号の裏表紙には標題とともに次のようなメッセージが書かれていました。

 

 「誰(だれ)しも自分が生きている間は戦争など起きて欲しくない。まして、罪のない人たちが

戦火に追われ、犠牲者(ぎせいしゃ)となる現実は胸が痛む。大切な命(いのち)が無下(むげ)

にされていく。この混迷(こんめい)の世に「命」から考えることは大切だ。命といえば、何より生命

としての命が尊重されなければならない。しかし、命の意義はそれだけではない。

 

 東洋の哲学(てつがく)では、絶対的な働きのことを「命(めい)」と呼び、大いなる宇宙の作用

を、「天命」、個の肉体を「生命」という。特に古代日本では人間の尊さを重んじるから命名に

際しても、その人の生涯(しょうがい)に絶対的な意味を持たせ、最後に命と添(そ)えてミコトと

呼んだ。生きていくことだって命を使うから「使命」、命を運ぶから「運命」となるのだ。

・・・中略・・・

 

 戦争が続くほど、多くの人生が不条理に晒(さら)され、蔑(ないがし)ろにされていく。人の尊厳

として命の貴(とうと)さを願わずにはいられない。」

 ひょっとすると、西洋の哲学はかけがえのない命に思いを馳せることができないのだろうか、この世

のものはすべて神によって造られたと心底信じているのだろうか?粘土細工のように命も神によって

簡単に造られると信じているから却って命の大切さを誤解するのかもしれない。

 

 その点、東洋では昔からすべての物に神が宿ると信じられてきた。即ち、目に見えるすべての物

には命があると考えた。人間の手で作られたものでさえも丹精込めて作れば生命が吹き込まれる

と考えたからこそ、生きものと同じように木石も大切にしなければ、その命が儚く尽きることを知って

おり、その命脈は代々続くと信じているのだろう。

 

 それにしても、戦争という狂気の沙汰では洋の東西を問わず、平然と殺りくを繰り返そうとするのは

何としたことか?

 

 きっと理屈ではなく、人の心には理性では抑えきれない魔物が棲んでいることを肝に銘じて置かなければならないのだろう。          (完)