徒然なるままに

いま防衛力拡充は本当に必要か?

加賀海 士郎

 ロシアのウクライナ侵攻が始まって3ヶ月が経過したが、戦火は一向に収まりそうにない。大軍が攻め入ったロシアは相変わらず特別軍事作戦と称して表向き戦争ではないと嘘ぶいているようだ。一方、ウクライナ政府は戒厳令と総動員令を90日間延長する決定を下した。アンケート調査によると国民の8割強が国土を割譲するような譲歩はしないと意思表示しているとのこで、この戦争はどうやら長期戦になりそうだ。

 

 侵攻を仕掛けたロシア自体がその目的を見失って迷走しているらしく、一向に出口が見えてこない。相変わらず目的を達成するまで停戦はあり得ないとプーチン大統領はネオナチの撲滅とかいう訳の分からない理由を掲げて侵攻の正当性を主張するばかりで振り上げた拳の降ろしようを失ったみたいだ。未だに所期の戦果を挙げられないとしてその責任を軍部に押し付けているようにも観える。

 

【クワッド(QUAD)】

 そんな中、米国大統領が韓国の新大統領就任を機に韓国を訪問し、続いてインド太平洋地域の安全保障体制、即ち、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて日・米・豪・印、4ヶ国の首脳会談に参加するために訪日した。

 日米首脳会談後の記者会見で、中国が台湾に侵攻した場合、軍事介入する意思があるかどうかを問われた際、バイデン大統領は即座に「イエス、それが我々の責任だ」と答えた。その真意がどこにあるのかは、仮定の話なのでバイデン氏にしか分からないのかもしれないが、インド太平洋地域では、台湾有事の際の対応が、いま、最大の関心事となっていることは間違いないだろう。

 

 記者会見でのバイデン氏の言葉を額面通り受け止めた人がどれくらいいたのだろうか?日本だけでなく、台湾でも対岸の中国でも半信半疑かもしれないが、それぞれの立場でそれぞれの聴き方があったに違いない。

 さて、ここで仮定の話を色々憶測して論じても詮無い話なので、十人十色の受け止め方があるとして、本題に移そう。

 

 筆者は、ロシアのウクライナ侵攻が始まって2ヶ月近く経った頃から、余りにもその悲惨な状況を憂いえて「良い戦争と悪い平和は?」について自分なりに考えてみたが、やはり如何なる戦争も速やかに止めるべきだろう。しかし、一向に停戦の気配は見えてこない。それどころか、ウクライナが正義の戦いをしていると肯定的な見方をしてしまう自分がいるように思う。

 もし、良い戦争があると考えれば、戦争はいつまでも続くだろうし、悪い平和があると考えれば慌てて停戦する事を躊躇うだろう。いずれにしろ戦争は続く事になる。本当に「良い戦争と悪い平和」はあるのだろうか?

 

 その第2弾として「日本の安全は守れるか?」と題して、自民党安全保障調査会(会長は元防衛大臣の小野寺五典氏)の提言案について、“目には目”の反撃能力の拡充で事は解決するのか?ウクライナの惨状に明日は我が身と恐れおののいて安全保障論議がにわかに沸騰しているが、いま我々が為すべき事は何なのか?ひとり一人が我がこととして真剣に考えようと呼び掛けた。

 敵基地攻撃能力とか反撃能力を拡充すれば我が国の平和は守れるのだろうか?それしか他に方法はないのだろうか?

 

 いま第3弾として、我が国の防衛力拡充の是非を考え、その答えを探っているが、今もウクライナでの戦火は燃え続け、ロシア軍は迷走を続けながら、止めようとしない。極東ではクアッド首脳会談に機を同じくして、三発の大型花火が予想に違わず日本海で打ち上げられたとのニュースが報じられた。彼の国では自国民が耐乏生活を強いられており、新型コロナウイルス感染症の急拡大にも苦しんでいるというのに、高価な花火を打ち上げて悦に入っている腕白坊主のような振舞は一体どういう思考回路なのだろうか?苦しんでいるのはウクライナだけではないとでも言いたいのか?元凶が自分の振舞にあるというのに、分からず屋の駄々っ子が腕力で我がままを押し通すような話だが、腕白坊主でもそんなでたらめなことをしないのではないか?

 

 そこでふと、自分たちが腕白だった少年期のことを考えてみた。腕ずくで我を通そうとする理不尽な振る舞いにわんぱく少年達はどう対処しようとしたのか?

【わんぱく少年隊】

 戦争なんて割に合わない無茶をする大人はさっぱり理解できない、そこで少年期の自分の経験に照らして考えてみようと言う訳だ。暫し、時計を逆回転させて1960年頃を想い起してみよう。当時は高度成長期のはしりであり、「もはや戦後ではない」といわれ、ある教師が中学校の教壇に立って、急激に様変わりしていく世相を、「所得倍増などという言葉に踊らされず、今はとにかく学問に励むこと、それが君たちの本分だ!」と声高に諭していた。その声がつい昨日のことのように蘇る。

 

 当時はまだ中学校を卒業して直ぐ働きに出る子ども達も少なくなかったし、一部、良家の子女や教育熱心な家庭を除けば学習塾や習い事に通う子どもはそれほど多くはなかった。精々、そろばん塾ぐらいで学校が終わると親の手伝いや子守りなどがなければ、自分たちで遊びを工夫しなければ暇を持て余す優雅な時代だったのだ。

 舞台は違うが映画「オールウェイズ三丁目の夕日」に観られる世相とほぼ同じで、モノがあふれる豊かな時代ではないが、自然が豊かで遊び場所には事欠かなかった。

 

 ここで話を理解し易くするために、二人の少年を中心にした「わんぱく少年隊」をドラマ仕立てで紹介しよう。

 

 中心人物は少年KとT。二人は土壁一枚で仕切られた二戸一住宅の隣同士として生まれ育った竹馬の友だった。Kの父は実直な地方公務員の課長職にあり、母は自宅で和裁教室を営み、姉と両親の4人、何不自由なく暮らしていた。どうやらKの父は少し離れた農家の跡取りらしく、母もまた同じような農家から嫁いできたが、仕事の都合で今の二戸一住宅に居を構えている。いずれ実家に戻らなければならない仮の城らしい。

 一方、少年Tは、戦時中、産めよ増やせよを地で行く子だくさんの家の末っ子として生まれ、父が早逝したため小学校を卒業する頃には、跡を継いだ長男(満州から復員してきたTの二回り年長の兄)の家族と同居していた。長男夫婦は当時3人の男児を抱えた5人家族であり、Tの母は、早くから長男夫婦にTを預けて農家へ住み込みで出稼ぎせざるを得なかったのだ。

 

 Kの母は自宅の2階部分に裁縫台を並べてかなりの人数に和裁を教えていたので、KやTは邪魔にならないように外で遊ぶことが自然に多くなった。Tは階下に降りることなく1階の屋根伝いにKの家へ行き来することができたから和裁教室が休みの時はKの家の2階で遊ぶこともしばしばだった。同じ町内会にはKとT以外にも同学年の少年が5人いたが、幸か不幸かその中には女児が一人もいなかった。

 KとTはまるで違う家庭環境、片や良家のお坊っちゃま、片や貧乏人の子だくさんの末っ子として育ちながら、なぜか気が合い小学校に上がる以前から大の仲良しで近所のわんぱく連中を集めては野山を駆け巡るように遊び呆けていた。

【ふるさとは遠きにありて思ふもの】

 彼らの周囲には、犀星がこよなく愛した犀川が流れ、その河川敷には格好の遊び場が広がっていた。神社の境内や少し足を延ばせば田園地帯が広がり、地方競馬場もあったのでわんぱく少年の冒険心を大いにくすぐってくれた。またその頃はまだ兼六園が無料開放されていたし、旧制第四高等学校の跡地には広いグランドがあり赤レンガ造りの建物脇を抜けて自由に出入りできた。そんな訳で子ども達にとっては映画「わんぱく戦争」を彷彿とさせる自由と冒険の世界が随所に広がっていた。

 

 何よりも、その頃は今と違って、パソコンもスマホもゲーム機さえも身近にない時代であり、子ども達は気の合う仲間と群れて、専ら屋外で日柄一日走り回って過ごすのが日課となっていた。同じ町の先輩が後輩の面倒を見て適当に遊ばせてくれるのが自然な姿であり、何かと忙しい大人たちにとっては、問題さえ起こさなければ多少のことは目をつぶってくれる時代だったのだ。つまり大人たちと子供たちの間には暗黙の守るべきルールがあり、商売物や生業として育てている作物に手を出 さなければ、余程の悪さをしない限り、こっぴどくお灸をすえられることはなかったのだ。

 

 しかし、そんな優雅な時間が流れていたのは団塊の世代と言われる子ども達が受験戦争に突入していく頃までのほんの2、3年しか続かなかったのだが、とにかくKやTはその幸運な時代を経験することのできた最後の世代だったのかもしれない。その頃の少年たちの多くは野球少年だった。と言っても本格的な道具がある訳ではなく、安物の用具を使い、狭い空き地や神社の境内を利用した三角ベースのソフトボールであれば少人数でも充分楽しむことができた。今と違ってテレビ放映がほとんどされていない時代、地方では圧倒的に巨人VS阪神のファンが多かった。サッカーやバレーボールその他のスポーツはまだまだマイナーな時代であり、高校野球の人気も高かったので野球少年が圧倒的に多かった。

 その頃、金沢市では小学校区別にソフトボール大会があり、その優勝チームが市の大会に出場することになっていた。それはわんぱく少年にとっては高校野球の甲子園球場に出場するくらいの栄誉なことでもあった。KやTが中学3年生になった夏、ひょんなことから、彼らの「わんぱく少年隊」を中心としたチームが小学校区の予選会であれよあれよと勝ち進み優勝してしまった。予選会は勝手気ままに「わんぱく少年隊」の流儀でやってこられたが、校区代表として市の大会に参加するとなると、たちまち町内会が大騒ぎになった。監督を誰にする?練習はどうする?作戦は?サインは?と大人たちがやたら介入してくることになったのだ。

 

 KやTにとっては監督も作戦も必要なかったのだが、公式な大会に出場する以上、その運営規則に従って責任者の届出や参加費用の支払いなど、それなりの手続きが必要だったし、用具やユニフォームも貸出しを受ける必要があり、勿論、会場への送迎の足も必要だったのでここは大人しく従うことにした。町内会もわずかだが予算を組んで弁当や飲み物などもそれなりに支給されるようになったのは有難かった。

 日頃の練習はこれまでと同様、夏休み中の早朝自主練習がほとんどで口やかましく指導する監督やコーチが居なかったのも有難かった。

 

【少年隊の鉄則】

 今と違って、手近なところに「柿、枇杷、柘榴、ナツメ、グミ、イチジク」などが生っていたし、スイカやイチゴは流石にドロボーと言って追いかけられるが、ちょっと失敬しても大騒ぎされることはなかった時代。川には鮎やウグイなどの豊富な川魚がいたし、少し探検に出掛ければバッタやイナゴ、蝶々やトンボや蝉の類は仲間に自慢できるような大物でもない限り簡単に捕まえることができた。

 子ども達の関心事は専ら仲間内でワイワイ楽しく騒ぐことや粗末な道具しか無かったが、野球(ソフトボール)や他愛もない対抗戦のゲーム(駆逐水雷とか泥警と称する子どもの遊び)の他、時々遠出する探検ツアーなどに没頭する事だった。勿論、宿題や学業が全く頭になかった訳ではないが、何にも増して仲間との交流に参加することが重要だったし、仲間と認められることが掛け替えのない名誉だったのだ。同時にまたそこには守るべき暗黙のルールがあった。

 

 それは決して難しい注文ではなかった。

1.仲間は助け合わねばならない、

2.弱い者いじめをしてはいけない、

3.「わんぱく少年隊」の秘密は守らねばならない、

4.集合の合図があれば速やかに集合しなければならない、

5.先輩を敬わなければならない(長幼の序)、

6.個人の都合より隊の都合を優先しなければならない、

7.今日的ではないが、男らしくあらねばならない、(女々しいのは恥とされた)

何のことはない「わんぱく少年隊」では、集団的安全保障ということが基盤だった。当然、最年長組がリーダーとなり、合議制による運営がなされた。

そして隊の秩序を乱すものは排除(除名)されたのだ。

 

 除名は不名誉この上ないことであり、いわば村八分に相当する。それは決して陰湿ないじめとは異なるが交友が断ち切られるため、当事者にとっては一大事だった。

しかし、実際には処分の実績は記憶にない。

(但し、安全上の危惧から除隊を促され、みずから退会したものはいた)

 

 隊の活動は秘密保持の対象であり、表面的には普通の少年の日常生活が営まれたが、隊活動の際は当然ながら組織的な行動が求められた(勝手な行動は不可)。 活動拠点は町内の公園の一角であり、特に指示がない限り集合が義務付けられることはなく参集は自由意志だった。但し、予め計画され指示があった場合は集合が義務化されるが、事情で参加不能の場合は事前申告が必要となり、当然、無断欠席は糾弾された。その場合でも、釈明の機会が与えられ、正当と認められれば精々、厳重注意される程度の緩やかなものであり、平和で安全なときが流れていた。

 今と違って携帯電話もない時代であり、ほとんど口コミ(伝言など)しか通信手段が無かったからすべてが仲間同志の信頼関係をよりどころにしていた。 

 考えてみれば、子どもの世界というのは、結局、大人たちの目の届く範囲で自由が許され、何か事があれば、既存の町内会や学校&PTAの統治が及び、その枠を踏み越えれば少年法や警察の統制(保護)を受ける事になる。従って、一定の枠を超えず常識の範囲内であれば、多少のトラブルがあっても何らかの制約(ブレーキ)が働き、出口の見つからない戦争状態にはなり得ないはずなのだ。

 

【外敵】

 わんぱく少年隊の活動が町内会で留まっている限り、通常は大きな問題は生起しない。精々、一つ二つ、年かさの先輩が「仲間に入れてくれ」と近付いてくるのが厄介と言えば厄介だったが、年長者を新たに加えるのは隊の序列に乱れを生じることから、体よくお断りしていた。元々、以前からの遊び仲間が結成したグループだったから、最初からお呼びではないし、これ迄も遊び仲間とは違うということから、年齢制限があるということにして断ることができた。

 

 例年行われていた校区のソフトボール大会の出場チーム編成は「中学生5名+小学生4名、但し、中学生に代わって小学生は可」を基本にしていた。

 KとTの二人は、日頃からの遊び仲間の少年たちを中核にして、ソフトボール大会への出場を念頭に、気の合うメンバーを加えて「わんぱく少年隊」を結成したというよりも、まだ組織化されていない遊び仲間を中核にソフトボールチームを編成したという方が的を射ていた。

 

 当時、同じ町内会の中三生にはKとT以外に、ガリ勉のGや後に高校でラグビーを始めたMを始め5人いたが、運動神経のよさそうなIを加え、元々の遊び仲間の中二生2名と、新たに野球部員の中二生2名を加えることにした。この二人だけは野球の心得があることからバッテリーを組むことになり、残りは中学生メンバーの弟や遊び仲間の小学生を集めて都合13名ほどのチームが出来上がった。

 校区のソフトボール大会(予選会)は町内対抗だったので、野球部員が中心になったチームは殆どなく、大抵は野球部員を2、3人加えた程度で、わんぱく少年隊が特別寄せ集めのチームと言う訳ではなかった。KもTも野球部員ではなかったし、日頃から三角ベースボールで遊んでいた仲間たちが普段着で予選会に出て行った訳であった。

 

 わんぱく少年隊の住んでいた町は小学校区の外れにあり、隣接校区には中学校区も異なる町があった。その隣接校区に、日頃、接触することのない、わんぱく連中がいた。ある日、いつものように神社の境内で三角ベースのソフトボールを始めようとしていた時だった、それまで見かけなかった如何にも性質の悪そうな悪ガキ風の少年が独りでふらりとやって来て何やら言いがかりをつけて来た。何故そうして来たのか分からないが、力を誇示する常套手段だったのだろうか?

 とにかく不条理な形で邪魔をされたのだ。その時はまだ仲間たちが全員揃っていた訳ではなく、あいにくKもいなかったので最年長のTが理不尽を咎めるように前へ出たところ、まるで暴力団まがいの難癖をつけて来た。

 

「何だ、文句があるのか?・・・俺を誰だと思っているんだ?」

 もとより隣接校区の少年で同世代と思しきその少年は、自分を知らないのはこの辺りじゃ“もぐり”だと言わんばかりに因縁をつけ、いきなり殴りかかってきた。

 

 まともに喰らったら堪らないと思い、咄嗟に身体を捻ってかわそうとしたが、左の耳たぶをかすめるように側頭部に一発喰らった。Tは殴り合いをする気はなかったので身をかわすだけで反撃はしなかった。その少年は居丈高に

「この辺りで、でかい顔をするな!」

身をかわすだけで相手にしないとみると、周囲の目も気になったのか、勝ち誇ったように捨て台詞を残し、肩を怒らせてもと来た方向へ帰って行った。

 

 少年がいなくなると、隣町の別の年下の少年が、Tを慰めるようにいった。

「よく我慢したね~、彼は札付きの不良少年だから相手にしなくて良かったですよ、僕たちも困ってるんです、手が付けられなくって・・・」

 

 Tは彼が目の前に現れたときから居丈高に難癖をつける少年だから、碌な相手ではないとは思ったが、仲間たちを守るためには最年長の自分が逃げ出す訳にはいかず、いきなり殴られるとも思わずに前へ出たのは如何にも軽率だったかもしれない。

 台風一過、Tは余計なことはしない方が良かったのかとの思いと反撃もできない不甲斐ない姿を仲間の前に晒したのかとの思いが脳裏を駆け巡り、口惜し涙が流れそうになったが、直ぐフォローしてくれた隣町の少年の言葉に救われたと思い直した。

 実際、不用意に反撃すれば、喧嘩慣れした相手のことだからボコボコに殴られて肋骨の一本も折っていたかも知れなかった。

【反撃能力の保持】

 しかし、それから暫くは男としてどうにも口惜しさが頭から離れず、どうしたものかとの思いが消えなかった。別に、仕返しをしようと考えた訳ではなく、これからも同じような理不尽にどこで遭遇しないとも限らない。身体は小柄だがその分、敏捷で我ながらスポーツ万能を自負していたTは、理不尽なことが人一倍嫌いだったので殴り合いをしても簡単に負けるとは思っていなかった。ただ、喧嘩慣れしていない彼は、理由もなく他人を殴ることができないと分かっていた。

 

 小学校を卒業と同時に家庭の事情で、名古屋へ転向した彼は、言葉(なまり)のせいで思わぬいじめに遭い、ついかッとなって教室で掴み合いの喧嘩をしたことがあった。その時、数人の級友が、差し詰め“松の廊下”のように、彼を制止したので手を緩めた隙に、勢いを盛り返した相手にしたたか殴られた経験があった。喧嘩には勝っていたのだが、級友たちの仲裁に従い気を緩めたとき、卑怯な相手に不意打ちを喰らったのだ。その時、相手の男らしくない卑怯な振る舞いが何とも情けなくて戦意喪失してしまったが、それ以来、Tは理不尽な喧嘩には力が入らないとトラウマのようになっていたのだ。何よりも、他人を傷つけることは年老いた母を悲しませることになり、とても自分にはできないと思ったのだ。

 

 そんな訳で喧嘩には強くないことを自覚していたが、これから先にも同じようなことが起こらないとは限らない。そんな時、逃げてばかりはいられまい、さてどうしたものかと随分あれこれ考えてみた。何か格闘技を身に着けようと真剣に思案もした。空手・剣道・柔道・少林寺拳法か、はたまた合気道が良いかもしれない。そんな思いが胸の奥につかえたまま長い歳月が流れたが、結局、実現することはなかった。

 親元を離れ、信州の大学で寮生活を過ごした折、周囲には空手部の友人や先輩が何人もいたが、どうにも彼らの中へ飛び込んでいく気にはなれなかったので、Tはこれといった反撃能力を身に着けることなく、大阪へ出てからも暫くは寮生活が続いた。

 そこで高卒の同期で同じ寮生活をしていた空手の有段者を知ったが、その男は、当時は、二十歳前で未成年だった。

 その彼が見知らぬ男と喧嘩になり、相手をボコボコにしてしまったらしい。数日して、空手の有段者はそれだけで素手であっても凶器を所持していると見做されるから下手をすると傷害罪や刑法犯になり兼ねないと述懐していた。彼もTもそのことは既に承知していたが、余程、先日のことが堪えたらしい、    

 あの日はどうやら一晩泊められてこっぴどく説教を喰らったのだろう?いまならそれでは済まず、差し詰め執行猶予付きの傷害罪だったのだろうか?

 

【大砲orバター?】

 果たして反撃能力の保持は我が国の安全保障に不可欠なのだろうか?先日、岸田首相は米国のバイデン大統領との首脳会談でロシアのウクライナ侵攻が続き、中国が覇権主義的な行動を強めるなか、日米同盟を深化させ、抑止力と対処力を一層強化するために防衛費の「相当な増額」を明言し、反撃能力の検討もする旨、バイデン氏に伝えたと報じられた。

 ウクライナ情勢を見ているとインド太平洋地域も他所事ではなく、台湾有事が現実味を帯びてきており、防衛力拡充は喫緊の課題だと考えるのは如何にも正論に聞こえるが、NATOのように集団的自衛権が機能するようにし、日本が国際的な仲間入りを果たすためには早急に取り組まなければならない課題だとの主張のようだが、その先には有事の際には命がけで行動しなければならない自衛隊をいつまでも憲法違反の状態にして置くわけにはいかない、また、防衛費の相当な増額を実現するためにはバターより大砲を優先しなければならない。ロシアの狂気を目の当たりにしては、明日は我が身であり、一刻の猶予もならないと訴えているのだろうか?

 

 子どもの喧嘩は大人が統御することが可能だが、大人の喧嘩は始末が悪い。これまでは抑止力の代名詞のようだった核兵器が恐喝の道具になってしまい、誰にも止められない狂気の沙汰になって来た?

 いま喫緊の課題はそのような狂気の沙汰を鎮静化する国際的な枠組み(仕掛け)を具体化する事ではないか。その為にこそ日本は知恵を働かせねばなるまい。

でなければ子どもたちに笑われるに違いない。             (完)