PHP(2020年7月号)の裏表紙より、

『この一日』

                    加賀海 士郎

 “西瓜食む孫の口から種三つ”

  

コロナ禍に巣ごもり生活を強いられ、退屈な日常にうんざりしていたが、漸くの緊急事態宣言解除を機に久し振りに子どもたちが孫を連れて集まって来た。コロナウィルスについてはまだまだ油断できない状況が続いているのだが、いつまでも籠ってばかりはいられない。

 

彼らも少しずつ職場復帰し、新たな日常を取り戻しつつあるようだが、親元に集まって食事をするのは三ヶ月ぶりだ。残念ながら東京住まいの娘夫婦は参加不能だが、姫路と堺からの里帰り組を加えて総勢8名、少し三密が気になるが、やはりリアルパーティは温かい空気に包まれる。

 

いつもとは違う雰囲気に保育園へ通い始めた孫もカタコトで大はしゃぎしている。

今年から地方で大学生活を始めた年長の孫と、この日が模試のため不参加の二人が欠けているが、一番元気が良いのは新一年生のやんちゃ坊主だ。

 

いつもは末っ子の三男坊が二歳半の従弟に兄貴気分を味わわせてもらっているのだろうなどと思いながら、PHP7月号の裏表紙に目をやるとそこには標題とともに次のようなメッセージが書かれていました。

「私たちの日々の暮らしは、当たり前の小さな幸福に囲まれている。仕事前に喫(きっ)する一服のお茶、休み時間に同僚(どうりょう)と語り合う時間、そして家族との団欒(だんらん)。

 

いや、それ以前に、朝起きて目いっぱいに伸(の)びをして息を吸える、大きな声で笑える、好きな所へ自由に出かけられることそれ自体、なんて素晴(すば)らしいことなのか。

 

ところが、それは当たり前ではない。小さな幸福がかけがえのないものだと知るのは、きまってそれらが失われる間際(まぎわ)で、手放したあとの哀(かな)しみは計り知れない。平和と健康はそれほど“有り難(ありがた)い”ものなのである。

・・・中略・・・

当たり前の一日を過ごすべく闘(たたか)っている人があまたいるなか、感謝の心なく、自身も悔(く)いが残る一日を過ごしていては、もったいないとは言えないだろうか。

 

一片(いっぺん)の雲もない美しい朝。いつものように一日が始動する。それは当たり前のようでいて当たり前ではない。

謙虚(けんきょ)な気持ちでこの一日を送りたい。」

 

確かにその通りだ。代わり映えのしない日々の暮らしにふと不満をもらすことがあるが、贅沢な話だ。自分独りで育ってきたような錯覚をしているが、誰一人として他の人の世話にならずに生きて来られた人間はいないのだ。

 

この世に生を与えられるということはとんでもないくらいの偶然が重なった結果なのだ。

ただ有るだけでとても幸運なことなのに、命あることに感謝もせず、五体満足で自由に歩き回れる身体を持ちながら、成績が芳しくないとか見てくれが悪いと嘆き、挙句の果てには出自を呪ってみたりする。

 

人間と言うのは何とも身勝手で業が深い生きものなのだろう。

 

コロナウィルスに自由を奪われて改めてその貴さに気づかされるとは情けない話だが、ささやかな家族との団欒にかけがえのない幸せを感じられるのだからまだ救われるだろう。(完)