何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

 筆者紹介(その四)

 

その頃、丁度士郎が入社して十年になろうとしていた。無我夢中で一人前になるまでは黙って頑張ろう。十年は辛抱だと心に誓うように働いてきた彼にも、ようやく会社が見え始めていた。

当時はオイルショックが幾度か波及してきて、物価が急激に上昇し経済は捕らえようの無い混乱が続いていた。士郎の所属していたプラント事業部門は業績が低迷し、いつ立ち直れるか解らない、抜け道の無い閉塞状態にあったが、強いパーツ事業部門に支えられて何とか持ちこたえていた。人員整理こそなかったが、他事業部門への配置転換や販売促進の為、工場の生産部門から販売部門へ出て行く人も多かった。採用は手控えられ、嫌気が差した依願退職者も少なくなかった。士郎には既に二人の娘がいたし、身軽に飛び出す当ても無かったので、とにかく何とかしなければと考えたが、何をどうすれば良いのか一向に思い浮かばなかった。

 

一体この窮状を誰が救ってくれるというのだろうか?今まで一体自分は何をしてきたのだろうか?自分がしてきたことが何か良い結果に繋がっているのだろうか?

士郎には答えが見つけられなかった。

会社は相変わらず受注拡大とかコストダウンだとかを掲げて販売部門の強化や新商品の開発育成に注力する方針のようだが、十年一日の観があり、一向に変化が見られなかった。

「戦略が無い。」士郎はそう感じていた。新商品がそんなに簡単に開発できたり、大きく育ったりする筈が無いが、何を本気で育てるのか?当面何で稼いでいくのか?逆にどの商品から思い切って撤退するのか?そんな強弱を付けた戦略がなければ、力は分散してしまい、どれもこれもだめになってしまうと考えていたが見積担当係長の力の及ぶ所ではなかったし、そんな考えをぶつける場所も人も見当たらなかった。

 

『一人前になるまでは黙って頑張ろう。きっと上司や先輩が良い方向に引っ張って行ってくれる。』と信じてここまで来たが、どうも誰も真剣に考えていないのではないか?

みんな自分のことしか考えておらず、後々のことや後輩の為など考えてくれる人などいないのではないか?士郎はそう思わずにはいられなかった。

 

昭和五十七年、彼の所属するプラント事業部門は大阪の工場を売却し、土地売却益を活かして兵庫県に工場移転することとなった。殆ど新たな出費を追加すること無く、三倍強の土地に立派な工場が建った訳だが、事業戦略も何も大きく変わることは無かった。

ただ従業員の三割強が種々の事情から、他の事業部門に転属となり新工場へやってこなかったので、その補充を含め新卒者や中間採用者が新たな仲間として加わった。一気に新人が増えたことにより様々な問題も生じたが、とにかく混乱させずに円滑な生産ができるようにする為に何とかしなければならないという空気が工場全体を包んでいた。

それは決して悲壮なものではなく、気分一新という前向きなものだったが、如何せん、事業内容が旧態依然としていたので、残念ながら業績は急回復することはなかった。

ただ、事業部門としての借金が減って身軽になったことと、オイルショックの影響が薄れ、景気が徐々に上向くと言う環境変化があったので、お先真っ暗という観ではなかった。

 

士郎は工場移転の直前に、労働組合の委員長の訪問を受けた。彼は、当時は組合活動とは無縁だったが、社内の事業部門別対抗運動会で応援団長を引き受けるなどから、周囲の信頼を得ていた。委員長の用向きは『新工場は組合員二百名規模なので、工場単位の支部を設置したい。現役の執行委員は道山君しかいないが彼は未だ経験が浅すぎる。支部長には昔、副執行委員長を経験した大森係長にお願いすることになっているが、もう一人しっかりした執行委員が必要だ。是非、貴方にお願いしたい。』というものだった。

 

事前に逢いたいとの電話があったが、士郎には多分そういう事だろうと察しは付いていた。彼は入社して間が無い頃、職場代議員を引き受けたり、年に一度の組合大会では執行部の方針案に質問をぶつけたりしたこともあり、組合員の一人としての義務感も持ち合わせていたので、余りためらうこと無く引き受けることにした。

何よりも頼まれると断ることが不得手な士郎の性格もあったが、当時の組合は労使協調路線で経済闘争を中心に話し合いする穏やかな活動を展開していた。

 

厄介なことには首を突っ込まずに誰か好きな連中に任せておけば良い。気に入らなければ文句を言う方が楽だと考える大衆が多かったが、士郎にはそれができなかった。組合も会社も新人が急拡大した新工場で思わぬ問題が噴出し、混乱することを極度に恐れたのだろうが、士郎とても自分が働いている職場が混乱するのは望む所ではなかったので自分が成長する為の良い機会と捕らえて引き受けることにしたのだ。

 

それから二年後には大森支部長の後任として支部長を引き受け、次の支部長を育ててバトンタッチする迄の四年間の組合活動が多くの得難い経験と人脈作りに役立ったと彼は語っている。

実際、一介の係長クラスが会社の経営トップと直談判することなど、普通では経験できないが、団体交渉やトップ懇談会などといった機会には、執行委員は経営トップを目の当たりにして話を聴くことができたし、そのやり取りの中で日頃、見られない経営トップの理念や時には、個人的な人格をも垣間見ることができた。

 

通常、交渉ごとは委員長が集中して発言し、せいぜい書記長が補強や後押しするのが一般で、他の執行委員が口を開くことなど殆ど無かった。組合が一枚岩で結束していることを示すのと、無用の言質を取られない為の常套手段だった。

士郎は時には、二百名の支部組合員の生活を守る為に直接発言することもあったが、自らをわきまえていたらしく組合幹部からも信頼され、会社からも問題視されることはなかった。

当時、組合も単に御用組合のように成果配分だけを話し合う機関から脱皮して、労使協調の基盤は堅持しながら、経営を観察し、将来の事業戦略を組合従業員の立場で考察し提言する能力を持たなければならないと考えていたようだ。

政治活動をする訳ではないが、他の労働組合との連携を模索し、広く社会市民の一員として自分達を考えなければならないと考え変質しようとしていたようだ。

 

士郎は専従の組合役員ではなかったが、当時組合として会社への提言をまとめることになった時『戦略なき戦いに勝利は無い。』と題する論文を提出した。

今風に言えば、事業の「選択と集中」が何よりも先決で将来を見越した事業戦略を明確にすることを主張したものだったが、それがどのように扱われたか残念ながら知らない。

組合からは従業員の声として届けられた筈だが、多分『そんなことは分かっているが実際に具体化するのが困難だから結果が出ていないのだ。ご意見は貴重なご意見として参考にさせて頂く。』と言った所だろう。

 

昭和六十年、四年間の組合活動から離れた頃、それまでの見積や原価管理業務担当から一転して資材外注担当係長となった。年齢も四十に達していたが、まさか今になって資材部門に里帰りするとは予想だにしていなかった。というよりも若い頃経験した、外注先とお金のやり取りで神経をすり減らすことが厭でしようがなかったので資材の仕事だけは避けて通りたいと願っていた。しかし、時代は変わっていたし士郎も成長していた。

昔のように厄介なものを外注に押し付け都合よく利用する外注政策では成り立たなくなってきていると彼は考えていた。

昔と違って、高度に技術が発達し、次から次と新商品を開発していかなければ顧客ニーズに応えることができない時代に成りつつあったので、すべてを自前の技術で賄うことはおよそ不合理で如何に外部の技術を活用するかが重要な時代に成っていた。

 

つまり、下請けから力強いパートナーへ脱皮することが外注先にも求められる時代に成りつつあった。プラント事業部門は外注資材の在り方が業績に直結するビジネスとも言えた。

その都度設計生産型であり、次から次へと進化する技術を取り入れてより効率的なものを提供しなければ競争に負けてしまう開発商品的な事業が中心だったので、多くの技術を外部に依存せざるを得なかった。当然、開発的商品はリスクも大きく、競争も激しく、それでいてコストが膨れて採算性が悪くなることが多かったので、相変わらず業績は鳴かず飛ばずという状態が続いた。いつまでも御用聞きのような大手企業の生産技術屋代行業を続けるのか、自社ブランド商品を固めて広くビジネス展開する道を選ぶのかプラント事業部門では決め兼ねていたようだが、とにかくその都度設計生産している方式ではコスト競争力が弱くなるので、イージーオーダー的なデザインストックを組み合わせる生産方式にしなければ成らないという考え方が支配的に成っていた。

 

事業部門間をあげて部品の標準化推進と業務システムの見直し改善や情報化推進が展開されることになった。当時の事業本部長はこれらの体質改革運動が成果を上げる為には、徒に販売拡大を図らない様に選別受注することが必要だと大号令を掛けたが厄介なことに、景況はいわゆるバブル経済に突入していったので、それまでの重要顧客からの注文を引き受けるだけでも受注抑制は絵に描いた餅になっていってしまった。

当然、体質は変わらないままに景気上昇に後押しされる形でプラント事業部門も空前の売上と相当の利益を産み出すことになった。その間昔からの標準型プラントや比較的標準化し易い外国からの技術導入品などの商品にデザインストックの整備や業務システムの改善が見られたが、相変わらず事業そのものを取捨選択し経営資源を集中させるべき事業を明確にするという事業戦略は一向に姿を見せなかった。

 

平成四年頃には景気の先行きが暗くなり、急激に業績が落ちていった。プラント事業の間連業界は軒並み低迷していたものの、未だ老舗のパーツ事業部門は業績の落ち込みがそれほど著しくなく、何とか会社全体の業績としては体裁が整うくらいだったので、その内景気が回復すれば何とか成るだろうと考えるものが多かった。

 

士郎はこれはひょっとしたらチャンスかもしれない。こんな時こそ将来の柱とすべき商品を選別し、イージーオーダー的ビジネスに転換したり商品の強化拡充を図る好機ではないか。どうせじたばた騒いだって目先の業績がそんなに好転する訳ではない。むしろ、少し悪さが酷くなっても将来の為の投資に注力すべきだろう。と彼は考えていた。

当時、今にしておもえば、バブルの崩壊の波及効果だったのかもしれないが、企業の東アジア進出が急拡大していた。それは日本のバブル崩壊により行き場の無い資金が東アジアの台頭とマッチしてバブルが輸出されたようなものだったと士郎は後に理解した。

 

しかし、不幸なことに彼の所属する工場が担当していた事業分野には東アジアへ進出する企業の顧客が多かった。労務コストの安い東アジアへ生産移転する為のプラントが多かったので、顧客は現地で調達可能なものは現地調達を前提とした予算組みをして予算の圧縮を図ろうとしていた。この為、日本国内で生産するには厳しいコストが要請された。それでも仕事は充分過ぎるくらい確保できることと、国内の下請け企業の中には海外進出による空洞化の波を受けてコストを度外視してでも受注に走ろうとする所が少なくなかった。

特に大手の家電事業の傘下にあった中小企業などは生き残りを掛けて仕事探しをしていた事が、士郎のいた工場の体質改革を吹き飛ばす勢いで東アジア向けプラント事業の受注を拡大して行った。

 

彼は、ある時工場の生産会議で『このまま今手がけている東アジア向けプラントの商品群に急傾斜して行くべきではない。この商品は一巡すれば急激に減少するいわゆる、設備投資循環に翻弄される商品だから積極的には販売しないのが従来の商品戦略と聞いていた。

その考えに誤りはないと思うからむしろ受注を控えて、最近売り出した商品「v」や「p」の拡充補強に注力すべきではないか。少なくとも現在担当している技術者を東アジア向けプラントの設計応援などに回すべきではないのではないか。』と疑問を投げかけたが、上層部からは『今そんな議論をしている時ではない。当工場が赤字から脱却できるか否かの瀬戸際にいるのだ。如何にして受注金額の中で利益を出すかが重要課題だ。』と切り返され議論にもならなかった。

 

士郎は受注金額の中で利益を出さなければならないことは痛いほど分かっていたが、年々受注環境は悪くなり、与えられた予算で次から次と要求される開発型商品の部品調達に苦しんでいた。価格が合わせられなければ生き残れないことを外注先と真剣に悩み、新たな取引先の発掘や設計変更など注力するよう懸命に部下や関係者に働きかけていた。

それでも結果はコストダウンと言う華々しい成果は見えず、時にいささかの予算オーバーとなることが現実だった。次第に工場全体が、『とにかく仕事は確保できるのだから仕事を欲しがっている外注先は日本全国探せば沢山ある筈だ。外注先を買い叩いてでも採算にのせ、利益を上げることはできないことではない。今は赤字減らしに集中すべきだ。』となって行った。

 

その頃、士郎は彼が入社した時以来見てきた間接部門の横割分業体制に疑問を感じていた。少種大量生産時代の工程別専門分業方式はラインバランスが取れる場合は効率が良いが、単一作業に分化される為、自分で考えて臨機応変に対応するスピードが必要な場合には適さないし、何も考えないで指示命令に従順に動く人間を求めることになり、人間の成長や生きがいを与える面では欠点が多いと考えていた。

 

世の中は昭和四十年代とは様変わりしていて、変化の激しいスピードが求められる時代になっていたし、昔の軍隊のように命令だけで人は動かない成熟した社会が広がっていたので、士郎はそれまでの資材課と管理課を一体化し業務の合理化を図ることを製造部長に進言していた。

その提言を容れて二年程前から生産管理課が発足し、生産計画から資材調達までを一貫して士郎が担当していたし、部下の業務分担も複数工程を縦割りで担当し自由度を持たせる方式の浸透を図っていた。

生産計画を担当していた古参の係長には、イージーオーダー的生産方式確立に向けて業務の標準化を担当する様説き伏せ、技術部門から転属してきた外注係長に生産計画から資財調達まで一貫して担当を任せる業務システムに転換しようとしていた。

 

士郎は人を育てることの大切さを痛切に感じていた。これまでの彼は時代の流れに翻弄されるように製造間接畑を転々とし、上司もその都度変わったことが多かったので、育てられたと言う感覚は余り無かった。いつも苦労の中に放り出され、悪戦苦闘して来たので深く考える癖が付いたようだが、今にして思えばそれが却って士郎を育てることになったのだろう。

ただ、いつも頭にあるのは「上司や先輩は部下が期待しているほど部下や後輩のことを考えてはいない。言われるままに仕事をしていると、後々、悔やむことになり兼ねないので、常に自分で考え納得する様心がけるべきだ。」という事だった。

だからこそ自分が部下を持った時は、部下の人生をも左右しかねない上司の責任の重大さを肝に銘じて部下のこと、その将来の成長を考えることを心がけていた。

しかし、部下がそんな彼の考えをどこまで理解していたかは定かではなかった。元々、理解してもらおうという話ではなく、そうすべきだとの彼の信念に基づく行動というべきものなのだ。

 

人生というのは厄介なものなのかもしれない。士郎が懸命に軍隊式の上意下達の業務システムから脱皮を図り、自律的に行動する部下を育てようとしている時に、時計のネジを逆に回そうとする考えが上層部から降って湧いたように出てきたのだからドラマよりもドラマティックと言わざるを得ない。

何がなんでも赤字減らしが至上命令となった工場では悠長に近代化をしている暇はないとばかりに、昔とった杵柄ではあるまいに、古参の鬼軍曹を担ぎ出し最強の外注買い叩き部隊を編成すると言うのだから時代錯誤もはなはだしい限りと、士郎には思えた。

しかし、サラリーマンの世界は違法行為でもない限り、組織の方針に従わざるを得ないのが現実だった。

士郎は買い叩き部隊の担当領域を東アジア向けの特定プラントに限定することやプロジェクトごとに分割し、士郎が育てようとした新参の係長の部隊と古参のプロジェクトチームを別管理することにしたが、それがせめてもの業務改革の為の抵抗と言えた。

 

世の中が目まぐるしく動いていた平成七年一月十七日未明、阪神一円が大震災に見舞われたが、彼の人生も思いがけない方向に急旋回して行った。

あの日の直前は三連休で十四日が土曜日だったが、思いがけず、自宅にいた士郎に休日出勤した部下から電話が入いった。

「加賀海課長、貴方のお名前が来期の組織図に載っていないことをご存知ですか?」

唐突な問いかけに士郎は一瞬どういう事か理解できなかったが

「そんなこと知る訳無いだろう。誰がそんな事を言っていたのだ?」

と逆に聞き返した。

「東京の営業係長がたまたまやって来て、彼の話によると、製造課長に東京営業課の北課長が予定されていることと、加賀海課長の名前がプラント事業部門の組織図には見当たらないことが去年の暮れから公然の秘密になっているらしいんです」

という答えが返ってきた。

 

「そうか、分かった。ありがとう。週明けには工場長に確かめてみるわ。」

と電話を切りながら、まさかデマでもあるまい。事業部以外とすればどういうことなのだろうか?悩んでみても始まらないが、工場を出るとなると慣れ親しんだ土地から転出しなければならないことになる。とにかく確かめてみるしかない。その確かめてみようとした矢先に歴史的大震災がやって来たのだから正に劇的と言う他無かった。

 

尋常でない揺れに目を覚ました士郎は、直ぐにかなり大きな地震だと感じた。家族は跳び起きて階下へ避難しようとしたが、彼は

「下の方が危ない。二階が安全なのだ。動くな、直ぐ収まる。」

と言って、布団から出ようとしなかった。

 それでも家族のみんなは階下へ降りて、士郎に階下へ降りるように促した。そうこうする内に、揺れは収まった。多分、震度四ぐらいだろう。学生の頃、松代群発地震を経験した士郎は、地震が一過性のもので、ジタバタ騒いでもどうにもならないことを知っていたし、揺れの大きさも評価できるくらいの知識を持っていた。

 地震が怖くない訳ではないが、人間、死ぬ時は死ぬと覚悟するしか無い。倒れかかってくる物や落下物から身を守る工夫をするぐらいで、後は運を天に任すしかない代物だろう。

先ずは、家族の無事を見届け、窓から外を見たが、特に変わった景色は認められなかった。近所の家々も静寂しきっており、問題は無さそうだということを見届けてもう少し、眠ることにした。

 

いつものように工場に出勤して、三々五々集まってくる仕事仲間も大したことはなさそうだった。工場の被害も荷崩れや壁に少しヒビが入った程度で業務に差し支えることは見当たらなかった。地震の被害や状況は、その後、徐々にニュースが入ってきたが、目の当たりに被害を見ない士郎にはピンと来なかった。

ただ、道路交通網が寸断されて、大阪近辺の外注先が工場にやって来れないことや出荷待ちの貨物が出せないことなどが少しずつ分かってきた。実際、自分達が陸の孤島にいる状態であることを思い知らされたのは震災の日から一週間ほど過ぎた後だった。在庫資材に欠品が生じても思い通りに補給ができなくなり、外注先からの納品が滞って工場の操業が維持できなくなって初めて、士郎にも事態の重大さが飲み込めた。

 

道路公団に問い合わせても高速自動車道路が復旧できるのはいつのことか予測できない。おそらく半年は掛かるだろうと言うことだった。それでも遠回りの陸路をいつもの何倍もの時間を掛けて配送しようとする物流ルートが繋がり、不便ななりに日常を取り戻して行ったが、正にしたたかな生命力をみる思いがしたと彼は述懐している。

 

震災の当日、士郎は自らの進退を見極めるという大切な命題を抱えていたので、とにかく工場長に会って話を聴くことにした。

「失礼します。少し、ご相談があります。宜しいでしょうか?」

と断ってから、おもむろに

「実は、私の名前が来期の組織図に記載されていないという話が、専らのうわさになっているとのことですが、真偽のほどは如何なものかと思いまして…」

と切り出した。工場長は、一瞬、当惑した表情を見せて

「そういう話が表に出ること自体、困ったものだが、未だ決まった話ではない。来期の組織については、今月末の常務会で審議されることになっているので、それまで待ってもらいたい。」

と答えた。

 

 それは肯定と言う訳ではないが、明らかに否定ではなかった。士郎は既に自分がプラント事業部門の外にいることを感じたが、不思議に動揺はなかった。土曜日に部下から情報が入った時は、正直言って晴天の霹靂という感じはあったが、二十五年も工場勤めを続けてきた為に固定観念に囚われていたと言うことなのだろう。考えてみれば一所で異動しない方が不思議なことなのかもしれない。

『人生、到る所に青山あり。』骨を埋める場所は何処にでも有る。自分を必要とし、活かしてくれる土俵が有るのなら何処へでも行くのが男じゃないか。彼はそのようにプラスに考えることにした。

 

(続く)