何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

 筆者紹介(その三)

 

士郎は自分が左翼かぶれだとは思っていなかったし、共産党員でも民主青年同盟員でもなかったが、大学の寮の自治役員をしていたことを考えれば、よくまあこんな会社に就職できたもんだと我ながら感心したといっている。

彼の当面のライバルともいうべき二十四人の同期生には東大卒こそいなかったものの、大阪大学の機械科と電気科を七年間程かけて渡り歩いて来た男や、東京の有名私学の落語研究会にいた男もいた。文系はどちらかというと私学出の都会派が幅をきかせていたようだが、不思議に技術系は田舎の国公立出が主流を占めていた。

 

とにかく文系は学科試験の洗礼を受けてきたのだから、心なしか眩しく感じたが士郎にはライバルという意識はなかった。十ヶ月余りの集合訓練が終わって、実際に職場に配属されることになったが、士郎と同じ事業部門に文系が二人と技術系が五人割り振られることになった。

同じ事業部門といっても関西と関東に事業所がある為、五名の技術系は関西が三名で関東が二名に分けられると共に、夫々一名は製造部門に配属されることになった。

誰がどの道を選ぶかは五人の話し合いに委ねられたので、士郎は机に向かってする仕事よりも現場で身体を動かすことを望み製造を希望した。又、東京が嫌いだから大阪に本社のあるこの会社を選んだのだといって、迷わず関西を希望した。

 

人生を左右しかねない分岐点に在る訳だから決めるのに苦労するかと思ったが、福井から来たYが士郎と同じように現場を希望し、『別に関東でも構わない。』といったのと、室蘭からやって来たAが『実家に少しでも近い方が都合が良い。』との理由で、結局もめることもなく、すんなり決まってしまった。

当時は大学卒が工場の現場へ出ることは少なく、特に希望を主張しなかった残りの二人も実家が関西と関東に別れていたから夫々希望通りということだったのだろう。

元々、会社側も関東と関西に配分し易い様に出身地などを加味して事業部門別の配属を決めているだろうから、当事者が協議して決めるという形を採る事によって、後々、不平不満が出るのを防ぐ狙いが隠されていたのかもしれない。ともあれ、こうして士郎のサラリーマン生活の第一歩は始まった訳である。

 

士郎の配属先は製造部だったが、そこは彼が想像していた機械メーカーの製造現場とは程遠いものだった。彼は流れ作業の工場をイメージしていた訳ではなかったが、少なくとも何か機械設備を使って物を作り出す現場を想像していたし、そこでエンジニアと呼ばれる生産技術屋になることを夢見ていた。しかし残念な事に、士郎が配属された所は天井に走行クレーンが有るものの、後は機械といえば溶接機ぐらいのもので正に雑然とした鉄工所そのものだった。

錆だらけの床や大声で話しても尚聴き取りにくい位の騒音が、これが現実だとばかりに彼に迫って来たが、もはや逃げ出す訳には行かなかった。

 

とにかく、十年は黙って辛抱しよう。仕事が一人前に出来ない者が文句を言っても始まらないし、入社して直ぐ逃げ出す様では、推薦してくれた大学の先生や後輩に迷惑を掛ける事になる、何よりもまた、田舎のお袋に心配を掛ける訳にはいかないから、何としてでも頑張らねばならないと考えていた。もっとも、士郎にとっても悪い事ばかりではなかった。

ライバルである筈の同期生も、地方から出てきて初めての寮生活をする者が多く、競争するよりも結束する場面の方が多かったし、生活防衛上の貴重な情報交換の相手となっていた。

 

当時の労務課長は『優秀な一匹狼よりも協調性の有る平均的な者の集団が望ましい。だから処遇にも突出した評価はしない。誰か一人を選んで残りの人間が腐る事の方が損失だ。』と言っていたが、まさか、その後三十年経った今日、その様に考えている人事労務課長はいないだろう。

今は逆に模倣から脱却して独創性を重んじる傾向が強く、少数のスペシャリストを優遇する時代に変化しようとしているというべきかもしれない。

 

士郎を迎えた職場は、正に三K(きつい、きたない、きけん)の職場だったが、見るもの聴く事全てがもの珍しく、仕事を離れれば自由で好奇心旺盛な若者を惹きつける世界が在った。

全ては自分の責任で社会人としての自由があった。幸か不幸か道を踏み外すような度胸も資金も無かったので、平凡で平和な新入社員時代だったといえるだろう。

 

そんな彼に同期生の一人がとんでもない話を持ち込んで来た。

『会社の文化祭で芝居をやるから出演してくれ。』と言うものだった。その同期生は関西の有名私学出身で、学生時代は英語劇をやっていたらしく、今度は演出をやるので士郎に準主役で出演してくれと言う事だった。

古い話で恐縮だが、今は亡きカークダグラスが演じて映画化された「ガラスの動物園」というドラマで、ローラと言う名前の美人だが少し足の悪い女の子と、その事を気にしている母親と、そこへローラの兄を訪ねてやって来るジム・オコーナーという男友達が登場人物だった。

舞台はその三人で展開され、ローラの兄は殆どがストーリー・テラーのように声だけの出演で姿を見せないドラマであった。

 

後に判ったことだが、演出をやるという同期生は、自分が見初めた彼女を口説き落として主役のローラに引っ張り出したが、相手役を誰にでもやらせられないので、声が大きくて、おとなしそうな士郎に白羽の矢を立てたらしい。

『ラブシーンも有るから……』と言って、ジム役を頼みに来た。勿論、士郎はラブシーンに目が眩んだ訳ではないが、思い悩んだ末に、その申し出を受ける事にした。

 

彼は、常々、自分が物事に消極的で引込み思案であることを気にしていた。今風に言えば自己変革しなければならないと考えていた。

これからの時代を生き抜く為には自分をしっかりと見詰め主張できる力と勇気が必要だと考えていた。それ迄の士郎は目立たない様に、周囲と衝突しない様に、波風を立てずに協調して生きる事を心がけてきた。学生時代に寮の自治役員を引き受けたのも先輩や周囲から頼まれて止むに止まれず引き受けたもので、決して表舞台を好んだ訳ではなかった。

 

考えてみれば子供の頃からいつも誰かに頼まれて、断れずに結局は引き受けてしまう事が多かった。未だに士郎は、基本的には内気で恥ずかしがり屋だと主張しているが、余り本気にする人はいないようだ。

彼は、母子家庭に育ち、失敗すれば母親を悲しませるので、失敗する事を極度に怖れた生き方が習慣となり、思い切った積極行動がとれない自分を変革したいと考えていたのだろう。

そこへ降って沸いたような話だったが、違った自分を発見するチャンスだと思い、引き受ける事にしたとのことだ。それ迄の士郎に芝居気があった訳ではない。せいぜい中学一年生の時、学芸会で先生から頼まれてトンチ坊主の狂言のような三人芝居に出た事が有ったくらいだから、本格的に発声練習から始めた時には内心『しまった。えらいことを引き受けてしまった。』と思ったが、反面、何とか新しい自分を発見したいので後悔はすまいと自分に言い聞かせていた。

 

人間、一旦覚悟を決めると結構度胸が良くなると言うのか、会社の講堂で就業後に発声練習をするのにも照れくささがなくなり、次第に本物の役者になったように背筋も伸びて来るから不思議なものだ。学生時代に街頭で署名運動をした時の第一声と同じで、何事も一歩踏み出すまでの勇気が必要なのだろう。踏み出してしまえばそんなに驚くほどのことではないのに傍目を気にする気持ちが行動をためらわせるのだろう。

自分に自信があれば勇気が湧いて来るのだろうが未知の世界に踏み出す時は自信などある筈もないので失敗を怖れる気持ちが不安となってのしかかって来るのだろう。その意味では子供の頃の体験や若い内から小さな失敗を幾つも経験しておくことが大切なのだろう。子供や部下が、命にかかわる問題は別にして、ちょっとした失敗をすることは大目に見てやる努力が必要だろう。

同じ失敗を繰り返すのは問題だが、成長の跡が見られる失敗は大いに奨励すべきかもしれない。

 

芝居の稽古は順調に進み、長い台詞も何とか憶える事が出来て、正に自信を持って本番に臨む事になったが、事は、そうは問屋が卸さなかった。

ほとんど三人しかでない芝居はどうしても一人当たりの台詞が多くなってしまうし、舞台の袖に引っ込む機会も少なくなるので憶えた台詞がちゃんと出て来るか一抹の不安はあった。

幕が上がり、芝居が進展するに連れて、士郎は余裕すら出てきていたが、そのゆとりが一瞬のスキを生んだのだろう。相手役のローラの手が震えているのがハッキリと見て取れた時、落ち着かせなければいけないと気を回した事がそれまでの集中力を失わせてしまった。

 

自分の台詞を台本一ページ分飛ばしてしまったのだ。それは丁度二人の会話の数分をタイムスリップさせたのと同じ事だったが、『覆水盆に帰らず』で、相手役には一体何が起こったのか分からないと言う戸惑いが見られた。

舞台の袖からは裏方スタッフや演出家の「あっ」と言う声が聞こえてきたように思えたが、直ぐさま士郎は自分のエラーに気が付いた。

とにかく芝居を繋がねばならない。相手役が動揺しない内に元の路線に載せなければならない。頭の中を高速で台詞が駆け巡り、正にアドリブで時間の歪みを繋ぎ合せながら一瞬の独り芝居を演じた訳である。

勿論、スタッフ以外の観衆は、ほんの一部をカットされた芝居を見せられたことなど知る由も無かった。

  

現実の社会でもこのような予期せぬ事はしばしば起こる訳で、芝居のように稽古で脚本通りに進展する訳ではないから、エラーも失敗もあって当然のことだろう。

問題はどのようにリカバリーするかであろうから、失敗は付き物として常に学習する気構えを持てばそんなに怖れる事はないのだ。

『失敗を怖れるあまり、行動に移さない事こそ怖れなければならない。』と言われるがその通りだろう。

 

士郎が役者の真似事をしたのは「ガラスの動物園」だけだったが、その時裏方を務めたスタッフの一人が、会社に入って間の無い女性だったが、本物の役者になりたいといって退職して行った。きっと自分探しの旅に出たのだろうが、その後どうなったかを士郎は知らない。

その当時の士郎にはそんなあすなろ的生き方や青い鳥を探す夢を追う勇気は無かった。平均的なサラリーマンとして、それでも早く一人前として認められる、いっぱしのエンジニアになりたいと考えていたようだ。

 

仕事の方は好況が続いていたが世の中が大きくうねり、変化して行く予兆を見せはじめていた。金の卵といわれた中学卒で就職する子供が少なくなり、高学歴化が進み始めていたが、士郎の配属先の製造部門には、大学卒は未だ数えるほどしかいなかった。

現場の幹部のほとんどは工業高校卒で大学卒を工場の現場に置いておくのは有り難迷惑な話だったのかもしれない。

結局、半年足らずで製造間接部門に回され、その内、何時の間にか外注資材部門に引っ張り込まれていた。士郎の配属先のプラント事業部門は大型機械の製造を手がけていたので、自社生産以外に九州や北海道の需要家に近い協力工場を利用して外注製作するものも少なくなかった。

未だ新幹線が発達していない頃なので、九州となると大抵は寝台列車で出かけ、一週間や二週間は木賃宿生活をしなければならなかった。

 

今風に言えば外注先の品質検査と進捗管理ということになるが、今日のような携帯電話もパソコンも無い時代で、FAXさえも使えない頃だから百聞は一見にしかずとばかりに、信頼できる人間を送り込み外注先をプッシュするのが手っ取り早くて効果的だったのだ。

当然、ちょっと気の利いた理屈が言えて、そこそこの判断力があり、何よりも身軽な人物が良い訳だから、駆け出しなのに何時の間にか外注のお目付け役に仕立てられて行った様だ。

石の上にも三年とやらで士郎にも会社の事情が飲み込めていたし、職場の人間関係にも、どうにか長続きしそうな手応えを感じていた。

 

その頃、彼には将来を約束した女性がいた。士郎が入社した後、少し遅れて中途採用で入社してきた女の子で、人事課に配属されていた。

当時、新入社員の身分は試用期間や教育訓練期間中は人事預かりという形になっていたので、昼休みなどには人事課が進入社員の格好の溜まり場になっていた。

士郎は奥手の部類に入り、むしろ女性に対しては行動が遅いタイプだったが、丁度、自己変革を意識して演劇に飛び込んでいった頃だったので、自分でも信じられないくらい思い切ってアタックするという行動をとった。

 

といっても、先ず付け文をするという古典的なスタイルだったから今から思えば純情としか言いようの無いもどかしさだった。

いわゆる彼女ができて順調に進んでいるような時に限って好事魔多しというのか、やたら遠方への出張が重なったが、職場では内緒の交際だったので、黙って試練に耐えるしかなかった。

夜行列車で九州へ出かける士郎を、彼女がそっと見送りに来てくれたことがしばしばあったが、古い歌謡曲の歌の文句のように懐かしい二人の思い出になっていった。

 

その後二年ほどして、二人は士郎の故郷のK市にて形通りの結婚式をあげ大阪で所帯を持ったが、わざわざK市まで戻って式を挙げたのは仕事と個人生活は別物で、会社の関係者に負担を掛けたり世話になりたくないという士郎の考えからだった。

それでも、損得抜きで彼と彼女の友達が夫々三人ずつ遠い北陸のK市まで出向いて華を添えてくれた。結局、会社の同僚や上司には遠慮してもらって、ごく近い親戚縁者だけでささやかな式を挙げた訳である。

結婚後もゆっくりする暇はなく、相変わらず地方外注への出張が続いたが、もとより、経験知識がそんなに豊富な訳でもないから見聞きしたり本やマニュアルの類から得た知識を必死になって組合せし、理論武装しなければならなかった。

 

又、何よりも資材は人付き合いが肝心で、相手に信頼されなかったら、それこそ和平交渉決裂という状態になり兼ねないし、一旦その様な戦闘状態に落ち込んだら、ほとんど回復は望めなくなることを誰から教わるでもなく士郎は肌で感じていた。

士郎は愚直に徹し、現地に溶け込むことを誠実に心掛けたが、若さは時に勇み足を誘発することがあった。若い頃は自分の責務を全うしようとばかり考えてしまい、時に相手の事が見えなくなってしまうようだ。

大きな物件が計画通り進まないことがよくあるが、『困るじゃないですか、これでは約束が違うでしょう。先般お願いした折、あなた方の方から修正案が出され、何とか調整して現在の計画がまとまったのに、今になって又、大幅な計画修正を言われても困る。おかしいじゃないですか。』と外注先の社長や担当幹部とのミーティングで声を荒げる事もあった。

 

しかし、考えてみればよくよくの事だったのだろう。社長の前で幹部が遠くから独りで乗り込んで来た若造に醜態を晒すように何とか再度の計画修正を頼むのだから、その裏には大変な苦労と事情が有ったに違いないのだが、自分が騙されたとしか思えない若い士郎には、本社の上司に何と報告すれば良いのかを心配することだけで精一杯だった。

その場が険悪な空気に包まれた時『加賀海さん、それは言い過ぎではないですか?我々もミスしようと思ってやっているんじゃあない。何とかしようと思って、懸命にやったのだが結果が付いてこなかった。それは我々の責任だし、みんなも承知している。結果的に約束を守れない事が判ったのが遅かったが、騙すつもりはさらさら無かった。

今は責任を云々している場合ではない。どうすれば良いか知恵を集める時でしょう。』とそれまで黙って聴いていた社長が凛とした声で士郎に忠告した。

 

士郎はいきなり後ろから頭を叩かれたような目眩がした。と同時に自分の事しか考えていなかった我が身を恥じた。

一瞬の間を置いて彼は素直に謝った。相手を信じる事だ。困るのは自分でも外注先でもないお客様ではないか?お客様に迷惑を掛けないよう、今は打つ手を考える時だ。目的を見失ってはならない。今なら士郎はそう考えただろうがその時は若かった。

しかし、駆け出しの頃から重ねたこうした失敗が、後の士郎の大きな財産になっていったのは言うまでもない。

 

昭和四十八年、第一次オイルショックが日本を襲う直前に、士郎は新商品の立ち上げプロジェクトに参加することになった。まだ、入社して五年目の生産技術屋にとって、隠密裏に製造方法を研究したり、必要な資材の供給元を探索するなどの一連の作業は興味あるテーマばかりだった。粗末な小屋のような実験室でひがら一日、根気の要る研究を、たった独りで何日も連続したことがあったが、若さがあり何よりも使命感があった。

士郎達が手がけたプロジェクトは新商品といっても既に幾つかの有力メーカーが市場を握っているもので、目新しい商品ではなかったが、彼の会社で手がけるには全く新しい生産技術を確立する必要があった。

 

後発メーカーとして新規参入を図る訳だから、生産技術に目処が立ち、供給体制が整うまでは隠密行動が求められたし、ライバルに勝つ為の戦略やセールスポイントが必要だった。

プロジェクトチームは事業部門の命運を担う切り札として位置づけられた新商品立ち上げに燃えていた。市場調査、需要予測、設備計画、人員計画、原価計算、採算性検討、競合商品調査と評価等々考えられる事は次々に手分けして実行していった。

それは士郎にとっては科学的で戦略的で素晴らしい取組みだったし、かつて彼の事業部門では見られなかった緻密な取組みだった。

 

確かにその後を含めて三十年余りの会社勤めの中でもこれほど迄に体系的にプロジェクトを展開した事はなかったと彼は後に語っている。そんな素晴らしい企てが、その後五年足らずで頓挫し、商品の撤退を余儀なくされたのだが、この失敗作でも士郎は極めて多くの事を学んだ。

彼は失敗の理由を振り返って次のように語っている。

 

先ず、時代の流れを取り違えていたこと。即ち、すでに昭和四十年代末期は世の中が少種大量生産から多品種少量生産へ変化しはじめていた、いわゆる、顧客ニーズが多様化し始めていた時代だったのに、最高の生産技術(何処にも負けない合理化設備)で規格品を大量生産する事を柱にしたこと。更に需要予測や市場調査をしたつもりがプロダクトアウト的視点からでしかなかった事。即ち、顧客の立場でものを考える事が出来ず、営業マンや販売店の意向や情報に頼った為、本当のニーズがつかめなかった事。

その結果、需要や競合他社の特性等を読み違えて過大な投資によるシェアー争いに突入し、過剰な在庫を抱えて資産倒れを起こしたこと。

今ならキャッシュフローを無視した無謀な事業展開と非難されても仕方が無いところだろう。

 

当時は販売企画と技術設計と生産部門とが夫々自らの担当分野で使命感に燃えてプロジェクトに取組んでいたので、部分最適に走りだれも全体最適を考えていなかったのだろう。

というよりも、昭和四十年代までの専門分業による大量生産方式の文化に慣れきっており、夫々が自分の持ち分で最高の効率を上げる事が全てで、他の部門の仕事に口出すことは憚られた時代だった。

結局、責任の所在がハッキリしないまま、在庫の山と立派な設備が士郎たち生産部門に物言わぬ証人として遺った。

 

このプロジェクトが終焉を迎える迄の五年間、士郎は生産技術の研究者であり、工程計画、外注資材、見積と原価管理、設備導入等のおよそ生産関連のあらゆる事に手を染めた。

加工法や設備だけでなく原材料や部品等を捜し求めて全国を走りまわり、多くの人に出会った。新聞発表をするまでは訳の分からない商品名を掲げ、架空の仕様書を創って見積照会や問い合せを続けなければならなかったが、その時、接した人々の信頼を裏切るような人倫にもとることは決してしなかったと士郎は語っている。

その後、士郎は資材や生産技術から少し離れ、見積、原価管理の業務に就く事になったが、それも挫折したプロジェクトでの経験を買って前任の原価管理係長が彼を推薦した為だった。

 

(続く)