何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

 筆者紹介(その一)

 

加賀海 士郎は一九四五年、北陸の伝統文化の息づく地方都市K市に生まれる。時あたかも終戦直前で、空襲警報の中を年の離れた姉の背に負われて逃げ惑った話は物心ついてから聞かされ、何時の間にか空襲警報が実体験の様に記憶に刷り込まれる。

父は病弱な貧乏サラリーマンだが尋常小学校を首席の次で卒業したということだから、聡明な部類の人間だったらしい。裁判所の書記官をしていたが、欠勤が多く、子沢山で家計は火の車だったようだ。それでも昔気質で、稼ぎが悪くても家長としての威厳を保ちかなりの美食家でもあったらしい。

 

母の言によれば、先祖は軽輩とはいえ武家即ち士族ということだが、父の代に事情で養子に行き、いわゆる両もらいの形で母と一緒になったとのことだ。ところが養子に入った先が碌に資産も無く、結局、養父母の面倒見の為のものだったらしい。

そのためか、『こぬか(米糠)三升あれば養子に行くな。』というのが父の口癖だったようで、士郎の直ぐ上の兄を養子に欲しいと言う話が持ち上がり、一旦は余りの貧乏に、我が子を手放そうかとした父も、結局、思い止まったということだった。

 

五男一女の末っ子として生まれ、長兄は二回りも年が離れており、筆者が生まれた時は満州へ従軍していて、まさか自分の子供のような弟が生まれていた等とは夢にも思わなかったに違いない。父は長男が復員して来た時、小さな弟を見せて『済まん。』と一言いったそうだ。

長兄が嫁を貰って間もなく安心したのか、士郎が満二歳の年に患わずして突然のように他界したが、当時の平均寿命が五十歳ちょいということからすれば、驚くべきことではなかったようだ。

 

長兄夫婦には、直ぐに士郎と三つ違いの男の子が授かり、その後も三年毎に男の子ばかり合計、三人をもうけて結局、士郎は近所の人からは男ばかり四人兄弟の長男のように思われていた。病弱な父に反して、母は気丈で頑健な体の持ち主だったらしく、寡婦となった後も少し離れた村の農家へ住み込みで出稼ぎのように働きに出ていた。

ご多分に漏れず、いわゆる嫁・姑戦争が勃発したようだが、幼子を抱えた母は長兄夫婦とは世帯を別にして頑張らざるを得ず、他の兄弟たちは中学校を卒業すると、次々に実社会に飛び出し、大抵は大阪などへ働きに出た。

直ぐ上の兄も十歳年が離れていたので、士郎が物心ついた頃、暫く一緒に遊んでくれた時期があったが、中学校を卒業すると間もなく、東京の方へ家出同然に飛び出して行った。

 

長兄はサラリーマンをしていたが、平凡な勤めに、馴染めず嫁の実家の薦めもあって、暖簾分けの様な形で金箔製造の家内工業を自分で始めたが、時代の流れか事業は発展せず、士郎が小学校四年生の頃に破産して税金が払えず、粗末な家財道具迄、一切が差し押さえの赤紙が貼られると言うことがあった。

余りの悲惨さに、名古屋に嫁いでいた、たった一人の姉が見るに見兼ねて、小学校を卒業すると同時に士郎を引き取ったが、人生何が起こるか分からないもので、昭和三十四年九月二十六日の、あの伊勢湾台風の直撃に遭い、二年足らずで士郎は実家の母の元に舞い戻ることとなった。

 

士郎の母は、下関の、いわゆるお茶屋のお嬢さんとして生れたが、その父が放蕩三昧で、身上をつぶし、小学校二年の時に二人の妹をつれて北陸の親戚に引き取られることになり、幼子三人で下関から北陸迄汽車の旅をしてきたそうだ。

今と違って、時代が明治から大正へ替わる頃だから、当時の旅行は大変なことだったに違いない。

その後、姉妹は親戚の家をたらい回しにされたらしく、年長の母は幼い妹達の食い扶持を稼ぐ為に紡績工場に住み込みで働きに出たということだった。

細かいことは分からないが、士郎の母にとっては、嫁に行けといわれた相手が誰であろうと、地獄に仏だったのかもしれない。病弱でその癖わがままな父の元に嫁ぎ、六人の子どもをもうけて、四十過ぎで寡婦となり、またぞろ、苦難の道を歩むことになったのだから、正に小説みたいな人生といえる。

 

不幸にして二人の妹は年若くして他界し、士郎と逢うことはなかったし、母も多くを語りたがらなかった。士郎の母は、小学校を二年で中退したことを口惜しがり、新聞などで懸命に字を覚えようとして、よく士郎に教えてくれと質問する程の勉強家だった。

元々、士郎の父は、そこそこ勉強しており、自分で写経したり、後に分かったことだが、浄土真宗の講話をしていたらしく、かなりの経本などを所蔵していた。水墨の仏画も描くという器用な所があり、士郎が幼い頃、押し入れの中の壁に、大きな達磨大師が目を剥いている画を見つけて震え上がったものだった。

 

昔は今ほど物が無かったので、唐紙などの下張りに利用できるものは何でも使ったらしく、父の仏画も押し入れの壁紙になっていたというのが真相のようだ。

士郎の父が存命ならば大いに憤慨したことだろうが、父の死後、沢山あった経本なども、一部を除いて形見分けなどで散逸してしまい、今は長兄が僅かに残った経本を活用して真宗の講話の真似事をしているようだ。

蛙の子は蛙ということなのか、今にして思えば、士郎の血や体の中には遺伝子だけでなく、幼い頃の空気のような何かが自然に溶け込んで、入っていたのかもしれない。

 

母方を辿れば、祖母は北陸の山奥の有名な神社の宮司の後添いに入ったと言うことだが、元々、神仏や学問には、縁浅からぬものがあったのだろうか。

士郎が小学校卒業を前にして行われた一斉テストでは、同点で首席を分け合ったし、中学校へ入いると、名古屋の田舎の方の学校だったが、最初の一斉テストで四百人中三番という成績が、廊下に張り出された

お蔭で、北陸から来た転入生に、周囲は一目を置くようになった。

 

当時はまだ、多くの子供達が中学校を出ると直ぐに、働きに出た時代だったが、偏差値教育などという言葉こそなかったものの、進学競争時代に突入する兆しを見せていたようだ。

頭の良いことが価値有ることという考え方が色濃くなっていく走りの頃だったらしく、成績の良い子どもは、かなり学習塾に通っていたようだ。

どちらかというと屋内でじっとしているのが苦手な士郎は、学習塾へ通う競争相手を可哀相だという気持ちとガリ勉を毛嫌いする目で見ていたようだ。

 

小学校時代は近所の悪ガキを集めて野原を駆け巡り、遊び呆けていた士郎にとって、名古屋での生活は別世界のようなものだった。家に帰れば、その当時では未だもの珍しかったテレビもあり、氷を入れる冷蔵庫の中には、いつもラムネなどの飲料が収納されているという何不自由無い暮らしが、そこにはあった。

極貧の生活を強いられ、月々三百円強の給食費を滞納して厭な思いをさせられた北陸の実家での生活とは、比べ物にならないくらい裕福な生活だった。

 

士郎には小学校の頃、ひもじさの余りつい他人様の物に手を出した苦い経験があった。それは最近の子どもに見られる興味本位の万引きとは異なり、ひもじさに抗しきれず、誘惑に負けてスルメのような惣菜に手を出したということだが、その時居合わせた店員さんが優しく諭してくれたお蔭で、その後大きく人生を踏み外すこと無く、強い戒めとして心に刻み自分を律することになった。

やはり、『渇すれば盗泉の水を飲む』のが生身の人間で、その弱さをつくづく思い知らされた貴重な経験だったと、後日、士郎は述懐している。

 

運命的な伊勢湾台風との遭遇で、貧しい実家の母の元へ舞い戻った士郎が、中学校を卒業の頃には母も還暦に近い年齢になっていた。

長兄夫婦の暮らし向きは、相変わらずゆとり有るものではなく、士郎にとって大学に行く事など夢のまた夢という思いであった。それどころか高校へ進学することさえ、おぼつかない状況だったが、よくしたもので、とある篤志家が、自分の卒業した中学校の生徒の中から三人を選んで奨学金を援助してくれるという話が舞い込んできた。

 

当時のお金で確か二千五百円程だったが、高校の授業料が七百円の頃だったので、生活費を別にすれば学費と小遣いには充分な額だった。

だれでもが貰えるという訳ではなく、その篤志家の代理の人が人物定めに家を訪れ、面接の真似事に付き合わされたが、その時初めて三十分を超える正座をしたため、しびれをきらして歩けなくなり、少年ながらプライドが傷ついた記憶が残っている。

 

幸い、奨学金の方は何事も無く支給されることになったが、他人の親切の有り難味をつくづく感じたというよりは、何故、見ず知らずの人がそんな奇特な事をするのか不思議に思ったというのが正直な気持ちだった。

んな事情もあり、母は口にこそしなかったが、相変わらず貧乏で大学へ行くことなど到底無理だということを、士郎自身が一番よく知っており、高校を出たら直ぐ働くつもりで、就職に有利な工業高校の機械科を自ら選んだ。受験その他の手続も、殆ど士郎が自分で進めた。

元々士郎は、いわゆる理工系が得意ではなく、どちらかというと国語が大好きという少年だったが、高校を選ぶ時は、就職に有利だと子供ながらに考え、算盤が苦手だから工業高校にしたとか、工業なら本当は建築科が希望なのに、成績の良いものは電気科か機械科だということからと、電気は目に見えないので機械にしたというような余り褒められた選択のし方ではなかった。

 

十五歳の少年の考える事など所詮その程度だったのかもしれないが後になって士郎は、良い相談相手がいて適切なアドバイスがあれば多分、就職のこと等後で考えればよいので、選択の自由度を大きくする為に普通高校に進学していただろう、やはり、『先達は在らまほしきものなり。』ということなのだと話している。

その後奨学金のお蔭もあり無事高校生活を過ごし、就職を考える頃になったが、その頃は益々進学熱が高まって来ていたのと、世の中が不況に突入し大手の証券会社の経営が傾くと言う大変な時期になっていた。

 

人生とはおかしな巡り合わせがあるようで、士郎の父の十七回忌がその年の五月一日だった。兄弟全員が顔を揃え、『兄弟が多いのに誰一人、大学に行っていない。みんな中学校を出て働いているが一人ぐらい大学へ行ってもよいではないか。』といいだしたが、士郎は内心これは大変なことになった。工業高校なんて進学を狙った授業内容でもなければ碌に、その為の勉強もしていない自分には容易ならざることだと思った。

そんなことは当の兄弟達にはとても解ってもらえそうになかったので、とにかく浪人することも有り得るが一年だけは目をつむってくれということで進学に挑戦することになった。

 

実際、工業高校でも、極、少数の者が進学志望だったが、大抵は中小企業の経営者の息子だとかで、始めから私学でも何処でも良いから進学をと考え、当時は未だ私立高校のレベルが低かったので、とにかく進学の準備に公立高校を選んだ連中が多かった。

その連中は、通常の授業時間にも別の進学の為の勉強(いわゆる内職)を半ば公然とやっていたし、教師も黙認していたようだ。士郎はその気になれず、授業は授業でキチンと勉強すべきだと向きになって内職を拒否したが、結局、進学競争では内職した連中に凱歌があがった。

 

士郎は満員電車に乗り遅れた乗客のような何とも言えない気持ちに襲われた。次の電車も又満員かもしれない。必ず乗れると言う保証は何も無い。という不安な浪人生活を始めることになったが、それはそれで貴重な体験が出来たと言うべきだろう。

彼にとっては初めての挫折だったが、どちらかというと織り込み済みのものかもしれないので、本当の挫折は後にサラリーマンになってから味わうことになったというべきかもしれない。

ともあれ、そんな訳で士郎は大学受験を失敗したが、その代わりに高校の学業成績は最優秀の部類になり、卒業生を代表して答辞を述べる栄誉に浴した。

 

その後、日本育英会の特別貸与奨学生の選考試験に応募し、大学での奨学金も確保することができたので、考えてみれば、高校の学業成績が悪ければ特別貸与奨学生の応募資格もなくなるのだから内職をしなかったことはそれなりに報われたのかもしれない。

もっとも、この奨学金は大学に進学できなければ資格は喪失するのだから、何としてでも電車に乗り遅れる訳には行かない条件が又、ひとつ加わったことになる。

そんなこともあって、二年目の受験は行きたい大学と安全確実と思える大学を選択することがテーマになったが、安全確実な金の掛からない大学などある筈も無く、一介の受験生に情報収集力も分析力も無い訳だから為す術がなかった。

 

『天は自ら助くる者を助く。』ということなのかもしれないが、進学情報誌を丹念に見ていき、大学模試の成績等と見比べ、いわゆる、穴場の学校を探し出すことに何とか成功した。

結局行きたいとリストアップした大学にはことごとくはねられたが、意外だったのは、予備校の校長から驚嘆された位、周囲の予想に反して、防衛大学の受験に成功したことだった。

士郎としては最後の砦のひとつで受験倍率は高かったが、学科試験のそれは三倍程度で必ずしも高率ではなかったので、そんなに意外と言うほどでもなかった。入学すると朝早くから夕方まで拘束され、夏休みも短いので、できれば通常の大学進学を何とかしたいと思っていた。

 

当時の大学受験は一期と二期に分かれており、二期校の合格発表は三月の月末に近かった。

防衛大学の入学式は四月三日に迫っており、歯止めに選んだ穴場の学科への進学が駄目だったら、いよいよ意に染まない軍隊行きだと言う気持ちが日増しに強まったが、勉強させてくれておまけに住み込みで月々七千五百円の給料もくれる有り難い所だから、親孝行になると思い直して、それでも電車に乗れる喜びを噛み締めていた。

運命とは面白いもので、二期校の発表を現地迄見に行き、そこに自分の受験番号を見つけると、その足で、箱根にいる直ぐ上の兄のところへ、束の間の春休みを楽しみに行ったが、ひとつ間違えれば直ぐ近くの横須賀へ一週間後には悲壮な覚悟で出向かなければならなかったと思うと、胸の奥から込み上げて来るような熱い喜びを感じた。

 

もっとも、二つの人生を一度に歩むことができないので、その後のことはどちらの人生が士郎にとって幸いだったか誰にも分からないことだろう。きっと人は自ら選んだ道を最良のものと思い、真にそうなるように努力することが幸いなのだろう。

 

こうして士郎は念願の大学進学を果たしたが、貧乏学生の彼には、未だ安定した居住空間を確保するという大問題が解決されていなかった。

実際、ぎりぎりまで何処の大学へ行くかはっきりしなかった訳だから、当然といえば当然だが、彼にはとにかく学生寮に何とか潜り込むしか選択肢が無かった。

というのは、その当時でも民間のアパートを借りれば一畳当たり千円が相場といわれ、その上、賄い付きとなると士郎には想像できない金額になっただろうし、自炊などに頼れば道具から何から揃えるのに大変な費用が必要だったから、選択の余地は無かった。

とにかく入寮願いを提出し、住民票やら所得証明書やら整えて手続きをとったが、入寮選考をするのは大学でなく、学生である寮の自治会役員ということだった。

 

四月の初めの信州は底冷えがするくらい寒く、選考委員の寮生はやぐら炬燵の中でどてらを着て待ち構えていた。世の中というのは好い加減なもので、貧乏サラリーマンの長兄の年収は自信を持って言えるくらい低い筈なのに、選考委員が言うには『君の所は他の人に比べて高収入で、寮に入るには不適切だ。』等といって入寮を渋るようなことを言い出した。

入寮資格の要件である保護者の年収上限より明らかに低いので問題は無い筈なのに難癖を付けて楽しんでいるとしか思えなかったが、ここは何とか頼み込む一手しかないと強引に頼み込んで、結局は事無きを得た。

 

しかし、どうにも腑に落ちないのは同期生が三十人強いたけれど、入寮後の生活は士郎より優雅な連中が殆どだったことだ。後で分かったことだが、大抵は農業だの自営業だの所得を過少申告して税金をごまかせる商売の所が多かったようだ。

実に要領よく世渡りをする連中が多いものだと妙に感心したが、とにかくこれで、一日百五十円、一ヶ月四千五百円あれば、三食と寝床が確保でき、おまけに学校の敷地内に寮が建っているというお誂え向きの生活拠点が手に入った訳だった。

 

毎月の生活費は八千円の育英資金と老いた母からの僅かな仕送りでぎりぎり賄えたが、およそ文化的な生活とは縁遠いものだった。

しかし、よくしたもので、貧乏学生同志、何やかやと融通したり、一杯四十円で飲める梅割り焼酎の飲み屋を見つけたりで結構楽しく生活できた。

考えてみれば出世払いの借金の様な奨学金の恩恵があればこその話であり、毎月の奨学金支給日は待ちに待った給料日のようなもので、この時ばかりは支給事務を担当する大学の職員が何とも善人に見えて来るから不思議なものだ。

毎月の事なので、いつの間にか手続に必要な自分のコード番号が士郎の脳裏に焼き付いていた。『四四○カ※※※※』それが士郎のコードネームだったが本名よりは値打ちの有る認識番号といえた。

 

昭和四十年代初頭というのは、学生運動が華やかなりし頃で、ベトナム戦争が問題になっていた時期でもある。

士郎が暮らした寮では、いわゆる赤かぶれした学生もかなり自由に迫害も受けずに活動していたし、寮生活の相部屋の先輩が熱心な民主青年同盟のメンバーで、時々士郎も街頭募金やベトナム戦争反対の署名集めに駆り出されたりした。

寮生活は必ず一、二回生は先輩の三、四回生と相部屋で、二人一室の共同生活をすることになっており、先輩を『オヤジ』、後輩を『ムスコ』と称して、仮想の親子関係の生活を強いられた。この為、相性の悪いオヤジにぶつかったら悲劇と言うしかなかった。

もっとも、オヤジの方もできの悪いムスコに当たると躾が悪いと周囲から突き上げられることになるので、お互い様と言うことだろう。

 

幸い士郎が相部屋になったのは少し赤かぶれした点を除けば、後輩思いの優しいオヤジだったので困ることは無かったが、どうやら小難しい理屈っぽい書生と見られる赤かぶれを毛嫌いする連中がかなりいたようだ。

日頃は面と向かって中傷しないのに酒を飲むと勢いづいて『おまえのオヤジは民生だ。けしからん、オヤジの不始末はムスコの責任だ。責任を取って酒を飲め。』といって、一升瓶をぶら下げて寝ている士郎を起こし、無理矢理コップ酒を飲むことを強要してきたのには閉口した。

いわゆる、大学名物のストームというやつだった。同室のオヤジの主義主張のお蔭で、他の寮生より頻繁にストームの標的にされたが、今風のいじめよりは、からっとしていて結構我慢ができた。

その寮のストームにもそれなりのルールというか不文律が有り、実際に危害を与えることは許されなかったし、酔っ払ってストームを掛ける方は王様で、その時ばかりは長幼など関係が無かった。先輩も後輩も無い訳だが、その代わり返杯されたらぶっ倒れても構わない覚悟で酒を飲む元気が必要だった。士郎は酒が人一倍強い訳では無かったが、腹の中に強引に流し込み暫くは我慢して付き合う位の芸当はできたし、顔が赤くなるタイプなので適当に酔った振りしてカラム演技も捨てたものではなかったので、同期生の屈強で酒の強いのを仲間にして時折、先輩にストームを掛けて大騒ぎをし、存在感をアピールした。

 

結局、目には目をの原理ということだろう、やられたら倍にして返すくらいの印象を与えたら、こちらに仕掛ける方も覚悟が要るので、遠慮が見られるようになったし、ストームも楽しいものになってきたという訳だ。

大学には五回生三年、だとか就学期間と学年が合わない学生が散見された。勿論、必要な単位が修得できずに留年した訳だが、スキーや山歩きが好きで故意に留年しているといっているものもいたが、寮の自治役員を引き受けて、授業に出る時間が足らないくらい雑用に振り回され、単位不足で留年になった学生も少なくなかった。

 

士郎は奨学金が命の綱であり、留年することなど許される筈も無いので、かなりまじめに学業に励み、単位も他の学生よりは早めに稼ぐよう気を配っていた。

学業成績は他の寮生にアピールしなかったが、ストームなどの自己主張が何時の間にか他の寮生や先輩にも存在感を示すことになったようで、二回生の時には寮長選挙に出馬する羽目になってしまった。対抗馬は農学科の男で、士郎の飲み友達であり、ストームの相棒だった。

出馬するには他の役員七名を事前に確保し、組閣できるよう協力を取り付けておかねばならなかったから、国会の首班指名選挙みたいなものだった。

 

(続く)