何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第五章  見えざる手

 

一、友が教えてくれたこと 

 

二、不思議な出会い

 

三、背中を押すことば(1)

 

三、背中を押すことば(2)

 

 加賀海部長の改革への取組みは、今、動き出したばかりの現在進行形で、今後どのように発展するのかは分からない。彼の粘り強い運動が、これまでの業務システムの一部に風穴を明け、組織体制を見直すきっかけを与えたことは間違いが無いし、形が変わって行くことも確かだろう。

 しかし、決してそれは会社風土がドラスティックに変わったのではないし、これから好ましい方に変わって行くかどうかも分からないことを、加賀海部長自身が一番良く知っていた。本当の活動はこれからなのだ。形を変えることはできるが、どうやってそれに息を吹き込むかが問題だ。

  加賀海部長には、まだまだこれから昇るべき山の頂上も見えないばかりか、高ささえも推し量ることができず、立ちはだかる険しさだけが感じられた。

 

四、感じて信じること

 

  前述の三編の話は、いずれも筆者自身の体験に基づくものである。紙面の都合などで、ショートカットしたり、若干の脚色を加えた部分はあるが、大筋で、事実を歪曲したものではない。

 しかし、それが事実であれ、フィクションであれ、どちらでも良いことだとおもう。フィクションだと思う人はそう思って読めば良いし、ノンフィクションだと思う人はそう思えば良い。問題は書かれている内容をどのように読み取り、感じるかであり、そこから何を吸収し、自分のものとして活かして行くかであろう。

 

  誰でも、自分を振り返って見た時、見えざる手を感じることができた場面を、ひとつやふたつ、必ず思い出すことができる筈だ。自分がとてつもない試練に立たされていると感じたことや、或る日突然、閃光のようなひらめきが走り、迷いが吹っ切れて、難問解決の道が見えたり、未知の世界に踏み込む不安で怖じ気づいている時、友人や知人の声を借りて一歩踏み出す勇気を与えてくれた言葉が有ったことを、思い出せるに違いない。

 

ひょっとすると、それらは全て、単なる偶然の所産かもしれないが、そう思ってしまうと次の展開が無くなってしまう。しかし、もし、それらを人生の不思議、見えざる手の為せる業と感じることができたら、とてつもない勇気や自信が、次の展開への推進エネルギーとして沸き上がってくる筈だ。人間には素晴らしい可能性があるのだと信じることが大切だ。それは決して自分一人の力ではない。自分が信じて前進しようとした時、周囲のエネルギーを吸い寄せ凝縮し爆発させるように、他の人にも影響を与え奮い立たせる勇気と自信を拡散して行くように、自分以外の力をも結集することができる筈だ。

自分の心の奥底に問い掛け、自分のしたいことを探し出し、その中から自分にできることを見つけ精一杯努力を続けることは大切だが、決して自分一人ではないことを肌で感じて信じることが素晴らしい人生を約束してくれるだろう。

 

人は生きる上で何か結果を出すべきだと考える必要はない。結果を得ることが人生の目的ではなく、どのように充実した人生を歩んだか?その過程が重要なのだと思う。

結果を先に考えると失敗を恐れて萎縮してしまうが、結果を求められてはいないのだから、もっと肩の力を抜いて自由に考え行動しようではありませんか。

 

自分自身の生き方を自ら選んで決めるという自由は、全ての人に平等に与えられた権利だと思うが、自分以外のお蔭が無ければ生きて行けないことを思えば、折角の才能を活かさずに眠らせておくのは勿体ないし、大いなる可能性を信じて何かの役に立つ方向で自分を生かす努力が必要だと思う。

 

それが万人に与えられた義務なのではないでしょうか?

 

五、経営は哲学

 

これまでの経営についても、理念だとか哲学だとかが議論された事はあっただろうが、概括的に言えば、二十世紀の価値観は成長、発展であり、効率の追求が命題だったと言えるのではないだろうか?

しかし、これからの時代に在っては、全く逆の発想が必要になるのではないでしょうか?価値観そのものを根本から変えなければ、早晩、行き詰まってしまうと考えられからです。

地球全体としては、人口の増加が続き爆発的な規模となることが懸念されています。単純計算では後進国の生活レベルを先進国のそれに近い水準に高めて、全体を維持することはほとんど不可能ではないかと言われています。

人口の爆発といわゆる南北問題はそれ程大きな、根の深い問題になって来ると思われます。従来の価値観の延長では、先進国の生活水準を下げる事は受入れ難いことでしょうが、発想を劇的に転換しなければ、南北問題に代表される貧富の差、持てるものと持たざるものの関係は対立や奪い合いを生み出すマグマのように大きくなる恐れが有ります。

これまでは無限の成長、発展を是として、経済性や効率と言う評価尺度で考える事を、当たり前の事として来たようです。会社も事業もどうすれば効率良く成長、発展するかということがテーマでした。不況に遭遇しても、どうやって利益を生み出し生き残るかが中心課題になり、他がどうであれ、自社だけは何としてでも生き残らねばならない。従業員の為にも、家族を含めた関係者の為にも、株主の為にも儲かる会社にしなければならない。皆がそう信じて力を合わせて来ました。

 

『会社は何故変われないのか?』何とか会社の体質を変える為にはどうすれば良いのか?という視点も、『会社の向こうに何を見る?』という視点も会社や事業を通して社会や人間を見ようとするもののように思えます。

筆者自身、そのことにやっと思い至るようになりました。この書を書き始めて既に半年近い月日が流れました。

当初は第四章で終章とする予定でした。『起承転結』を考えれば、その方がバランスの良い構成だと考えていましたが、第四章をほぼ書き終えて何かが欠けているという想いが拭えませんでした。いつまでも心の動きのように変化するものを追い続けていては、いつになったら終るのか切りが有りませんので、適当な所で区切りを付けて別の機会に譲るべきだとも思いましたが、やはり、終章として第五章を追加せざるを得ませんでした。

 

残念乍ら、その最後の項に辿り着く今の今まで、会社から脱しきれない自分に気が付きませんでした。今、筆者は確信しています。

 

先ず人間を見詰める事です。自分の足元からでも良いと思います。家族を見詰め、親戚縁者を見詰め、会社の同僚や地域社会の人達を見詰め、どんどん広げていけば社会を見詰め、人間全体を考える事になる筈です。さらに発展させれば他の生きものや草や木や地球全体にも想いを馳せる事になるでしょう。その中で自分はどのように生きていくのか、どのように働き、自分を何かの役に立てて行くのかを考えることが大切だと思います。

 

詰まり、生活の場、自分を活かす場、社会的責任を果たす場として職場は重要な場となります。正に生きるということを実践する場の一つとして職場が在る訳です。

そこでは、如何にして社会に役立つか、自分たちの働きが評価されて、その結果として存在が認められ、働きの対価を頂戴し事業の存続が可能となるという訳です。

 

これからの時代、二十一世紀は価値観が根本的に変わらなければならない時代になると思われます。会社や事業を評価する尺度も劇的に変化するのではないでしょうか?これからの経営は人間だけでなく、自然や地球そのものを中心に据えて見詰め直さねばならなくなると思います。これからのリーダーは哲学者でなければならないかもしれません。

これまでのように経済性や効率を追求するのであれば、科学者や技術者或いは経済学に長けた人達がリーダーであれば良かったのかもしれませんが、これからのリーダーは哲学を抜きにしては語れない時代に成りそうです。

科学や技術は益々必要になるでしょうが、これまでとは異なる価値観の下に活用されなければならないでしょう。

 

地球も自然も誰のものでもありません。富も財産も一切が大自然からの借り物なのではないでしょうか?先に発見したから利得を独占して良いとか力に優れたものが独占して良いといったルールは問い直されねばならないでしょう。全体にとって最適な事であれば、優れたものがその任に当たり、全体でその利益を享受することは賢明な方法かもしれませんし、その任に当たる優れたものを尊敬し、称えるべきでしょうが、私的に富や資源などを独占することは排除しなければならないと思います。

その為にもこれからのリーダーに求められる資質、要件で何にも増して重要なのは、私心を優先しないで公に奉ずる考え方や態度がとれる事でしょう。それは言い換えると、会社とか狭い地域とか、民族とか国とかをも超えた価値観、人類愛だとか世界観だとか、ひいては宇宙観に連なるような価値観に照らしてものごとを考えられる人がリーダーになるべきであり、遠くを観ながら現実に今何を為すべきかを語れる哲学を持った人がリーダーにならなければならない時代がやって来たのだということなのです。

 

これまでの価値観で会社を何とかしようとしてもどうにもならないかもしれません。

特に日本では、戦後半世紀余りも、平和な繁栄の時代を過ごして来ました。敗戦と言う大事件がそれまでの価値観を覆して全く新しいものに変えてしまいました。

特に団塊の世代といわれる人達は、新しい価値観を疑う事も無く受け容れて或いは、刷り込まれて、戦後の高度成長期の原動力となってきました。しかし、ここへ来て、これまでのような成長発展は望むべくも無く、自らの将来を誰が支えてくれるのか、答えを出すのさえ恐ろしいような課題を突き付けられています。

 

自分たちが信じて来たものは、一体、何だったのだろうか?これから拠り所とするものは一体、何なのだろうか?このままでは、自分が働いている職場どころか日本そのものが沈没するのではないのだろうか?との不安を憶えているのは筆者だけに限らないのではないでしょうか?

皆が会社を何とかしようともがいている内に、日本が駄目になってしまうかもしれない。そんな気がしてならないのです。

 

会社どころか社会が崩壊し始めているのではないでしょうか?効率中心で来た為、効率の悪い事は切り捨てたり、経済原理にそぐわないことは国がやれば良いとか、篤志家に任せておけば良い等といった身勝手な論理が大手を振ってまかり通って来たのではないでしょうか?

そんな価値観の社会では、迷惑を掛けなければ何をしても構わないとか、税金を払っているし、自分の生活費位は自分で稼いで、誰の世話にもなっていないからそれで良いのだ。といった考えや行動が蔓延して来たのは当たり前といえば当たり前の事かもしれません。

そんな考え方をDNAのように自分の子供達に刷り込んでしまって良いのでしょうか?もうかなり刷り込みが進んでいるかもしれませんが、初めての戦後教育を受けたものとして、我々自身の価値観を今一度、問い直して、その上で、引き継ぐべきでないものを正していかねばならないと思います。

宇宙観や世界観では話が大きすぎるのなら、せめて日本が沈まないようにする為に、アジアに目を向けて、日本がこれまで欧米から学んだ技術や知恵を、アジアの仲間たちが平和で安らかな暮らしが手に入れられる方向で活かす事を考えるべきではないでしょうか?アジアが沈んだままでは日本の未来は拓けないだろうし、世界の平和も約束されないと思います。

 

人間の欲望にはきりがないといわれますし、利害得失でものごとを判断する人が多い現実の世の中で、筆者のような主張は馬鹿げた理想主義に聞こえるかもしれませんが、その様な評価しか与えられない矮小な価値観は、実は日本人の良さや文化をも全否定した形で進められた戦後教育の結果なのかもしれません。

教育というのは考える力も無いうちから、まるで生まれつき考えていたような刷り込みが出来る訳ですから、大変な影響力を持っていると思います。それは単に学校教育にとどまらず、永い年月の間に教育を受けた人達が家庭を持ち、その子や孫達にも受け継いで行く訳ですから、そら恐ろしい話ですが、既に我々は自分の受けた教育の延長線上で子供達に接して来ました。

曰く『勉強しないと良い学校に行けませんよ。』曰く『良い学校へ行かないと碌な仕事に就けませんよ。』挙げ句の果ては子供に自分が果たせなかった成功者への道を歩ませ、夢を託そうとして来なかったでしょうか?

本当の幸せとはもっと別の所に在るかもしれないと言うのに、競争に勝つこと、決して負け組みに入らないようにすることを是とし、弱者は切り捨てられたり衰退するのはやむを得ないことと考えて来なかったでしょうか?そんな目で日本がアジアを見れば、アジアが日本をどんな目で見るか想像出来るでしょう。

 

本当に分かち合う為に耐乏が必要なら、そうすることが将来にわたって最良の選択なら真剣にその事を考えなければならないことを我が子に教えなければならないと思うのです。

 

戦後の社会が、教育によって意図的に創り出された部分が大きいということであれば、これからの社会も又、逆に教育の在り方次第で大きく創り直すことができるのではないでしょうか?

これからの時代に相応しい価値観を問い直し、素晴らしい世の中が、永く持続可能となる社会システムに創り直す為に教育は大きな役割を果たす事になると思います。

その原動力は学校教育に限った事ではなく、むしろ、我々自身が自ら価値観を問い直し、家庭や職場等の身近な場で、教育や伝承を通じて果たさなければならない役割があることを認識する事から始めねばならないのではないでしょうか?

 

  我々が学び、受け入れて来たものが、次代に引き継ぐに相応しい考え方(生き方)なのかどうかを、今一度、問い直してみようではありませんか?

 

(続く)