何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第四章  ミッションステートメント(私の願い

 

一、私の願い

  

二、自然に感謝

 

三、壊さず、汚さず、浪費せず。

 

四、貧困の撲滅から世界の平和へ

 

五、我、唯、足るを知る

 

六、自然に還れ

 

七、水に学ぶ

 

古来、人は自然の営みに深い関心を寄せ、そこから人間の力では如何ともし難い何者かの力を感じ取ったり、賢明に生きる術を学んだりしてきた。

特に、川の流れや水に喩えた話やことわざなども数多く知られているが、物言わぬ水をあたかも意志を持った生きものの如くとらえ、その中からも教訓を得ようとした先人の知恵と感性には、唯ただ、驚かされるばかりである。

 

水は人間の身近にあって、生きて行くには欠かせない存在であり、環境により変幻自在に形を変え、時に現れ、時に霧散し、身を潜めてしまう様は他に類を見ない所かと思われる。

 

人間の体の過半は水から成っているということだから、人は土に還えるといわれるが、その実は、水から生まれ、水に育まれ、また水に還えるというべきなのかもしれない。

水には永遠の生命が宿るように、天から大地に降り注ぎ、せせらぎとなり或いは地に潜り、湧出して清水となり、集まって川となり流れとなる。時に、霧となり飛沫となって気化し、又、天に帰るものもあるが、多くはまるで意志を持った生きもののようにひたすら海を目指す。

時に、行く手を阻む岩や障害が立ちはだかれば、ぶつかり砕け散りもするが、巧妙に身をかわし、その場をやり過ごす。実に自然の摂理とはいえ驚かされずにはいられない。

川の流れの中に突出した岩が在れば、無謀にもその岩に食らいつき水飛沫となって華々しく雲散霧消するつわものもあるが、多くはほんの少し遠回りしても、その岩の脇をすり抜け、ひたすら目的地を目指す。

 

誠に感心させられるのは流れが岩に心ならずも身を二つに割かれても、岩の脇をすり抜ける時に水は巧妙に流速を増し、何事も無かったかの如く、又、合流して目的地に向かうことである。

それだけでなく、唯、単に邪魔者を避けて通ったかに見えた水が、ほんの僅かずつでも岩に作用し、永い歳月の中で荒々しい岩を角の取れた円熟の石に変えたり、幾つかの小石に分割してしまうのだから、それこそ正に『流石(さすが)』と言う他あるまい。

 

人の生き方もこの川の流れに似て、筋が通っているからといって唯ぶつかるばかりが能ではない。次善の策に見える回り道でも正しく理に適ったことであれば、いずれ我を張る岩石も形を変えざるを得なくなる筈である。

よしや不幸にして、自分が完成させられなくても、その目指す所に間違いが無ければ、必ず後進に受け継がれ、いずれは結実する筈である。

『点滴、岩をも穿つ』の喩えと同じ事であろうか。ものごとを変革しようとする時も、それが正しい時代の流れであったとしても強大な岩が行く手に立ちはだかることは少なくない。流れを押しとどめようとする岩は、時に壁のような盤石で、これまでは、その岩のお蔭で正しいとされた流れがそこに在った筈だから、岩は岩で自らが正しいと信じて頑張っている訳である。

従って、徒にぶつかっても雲散霧消の水飛沫となって、下手をすれば犬死ということになり兼ねない。厄介なことに、この盤石の岩はこれまでの流れを守り、変えないことを自らの使命と信じ込んでいる。だからといって、いつまでもその前で渦巻いて淀んでいる訳には行かないので、水飛沫となり昇天し、何度も何度も舞い戻ってぶつかるものも地に潜って地下水となって大海を目指すものもあるだろうが、ここは一番次善の策で脇道をすり抜け、巧妙に衝突を避けるのも賢明な方法だろう。それこそが『流れ石』の極意というべきか。

 

今、眼前に立ちはだかる岩は、ぶつかれば容易に崩れ落ちる砂岩や泥岩の類なのか苔むすまでの巌なのかを見極め、その上で、最善の方策を選択することが求められる場面は永い人生の随所に出て来るだろう。

せめて自分自身がいつの間にかイノベーションブロックといわれる革新の阻害要因にならないように、自らの生き方や考え方を常に振り返り、問い直し反芻する事を忘れてはならないと言うことを水は教えてくれる。

 

時が流れれば環境は変化するのは誰もが知っていることである。何一つ変わらぬものは無い訳だが、決して周囲や環境が自分の都合の良いように変わってくれる筈が無い訳で、環境の変化に合わせて変幻自在に自らを変化させることこそ求められる訳である。

正に、物言わぬ水が、自然体で素直に生きる大切さを教えてくれているのである。

 

 

 

第五章  見えざる手

 

一、友が教えてくれたこと

 

  小学校六年生の頃、クラスの仲間と撮った写真がある。その頃は近くの公園などに出かけて行き、写生だの自然観察だのといった学外での授業が結構多かった。

 多分その時の一枚だと思うが、公園で六人ぐらいのメンバーが肩を組んで仲良く写っているものだ。奇妙なことに、その中で一人だけ肩を組んだ仲間から一メートル程離れて直立不動の姿勢をとっている。腕白盛りの子供達が思い思いのポーズでスクラムを組んでいるのに、その子だけがなぜか神妙な顔をして写っている。

 決して、仲間外れにされていたり、いじめられっ子だった訳ではないが、とにかく離れて立っている。その子の表情には、悲壮感は見られない。むしろ晴れがましい記念写真の表情だ。私にはその意味がつい最近まで分からなかった。

 

  実は、その友人のS君は小学校を卒業する前に川下の学校へ転校して行った。といっても直ぐ隣の学区であり、私の家からは少し時間は掛かったが、S君の家は歩いて行けない距離ではなかったので、その後も友達付き合いは続いた。

 彼が何故引越しする事になったのかは彼の口からは聞けなかったが、一度、彼の家に誘われて遊びに行った時、余りの貧しさに私は正直にものが言えなかった。

 

彼の引越し先は、当時、土地の人達が朝鮮部落と呼んだ在日朝鮮人の集落の中を通って更に川下の河川敷にぽつんと立った集合住宅だった。集合住宅と言えば聞こえは良いが、真ん中に土間の通路があり、その両脇に六畳か八畳程の部屋が並ぶ木造の古い平屋のアパートだった。

そこの一間に一家五人が寝泊まりしていると言う凄まじいものだった。部屋の真ん中には円形のちゃぶ台(食卓)が置かれており食器だの日用雑貨だの細々としたものが部屋の隅々に押し付けるように並べられていた。箪笥や水屋(食器棚)といった気の利いた家具等を置けるスペース等有る筈も無い居住空間というには余りにも粗末な部屋だった。

部屋の入り口は初夏だったこともあり、薄っぺらい暖簾が風に揺れているだけだったから、時折、通路から部屋中が丸見えになったし、何処から集まって来るのかちゃぶ台の上の僅かな食物には黒山の蝿がたかっていた。

 

日曜日だった筈だが彼の両親は働きに出かけていたらしく、それでも息子の友人の来訪の為に精一杯の昼食を準備していてくれたようだった。

弟たちは気を利かして外へ遊びにいっているようで周囲には見当たらず、彼と私と飛びまわる蝿の群れだけが、時間が止まったような空間を創り出していた。

 

  『私にはとても、今自分が座っているような場所に友人を誘って連れてくる事はできない。彼は何と素直な屈託の無い人間なのだろうか?それに引き換え、私は何と情けない狭い心の持ち主だったのだろうか?自分が貧乏だからといって卑屈になる必要は無い。そんなことで離れて行く友人は真の友ではない筈だ。』という思いで強烈なショックを受けていた。

 

その頃と言うのは、いわゆる戦後十年以上の歳月が過ぎて、世の中が落ち着き始め、物質的な豊かさを求めて高度成長期に入り始める前兆の時代だった。まだ、テレビこそ出始めで、もの珍しく一般化していなかったが、電話が普及し始めたり、電灯も白熱球から蛍光灯になったりラジオが真空管からトランジスタになったりと、どんどん進化して行く頃だったと思う。

多くの家には、水道は勿論、都市ガスも普及して来ていた。襖や障子がガラス戸に替わったり、所得倍増計画が打ち出される直前の『もう戦後は終わった。』といわれた時代だったから一般家庭の生活もかなり落ち着いたものになっていた。

 

そんな時代に在って、私の家は未だ一昔前の状態が続いていた。相変わらず、破れ障子や襖の唐紙はみすぼらしく穴が空いたままだったし、電話はおろかガスも無く、ご飯を炊くのにへっつい(かまど)を使い、燃料は川向こうの製材所から材木の表皮を剥いできていた。

流石に水道はあったが、隣に住んでいた幼馴染のM君の家庭とは比較にならないものだった。

 

M君の家とは壁一枚隔てた、いわゆる二戸一住宅で、クラスは違うものの同学年だったので近所の悪童を集めて遊び回った仲だった。よく彼の家には遊びに行ったし、裏庭に大きな柿の樹があり、屋根伝いにM君の部屋にも遊びに行ける状況だった。

彼の父は郵政省の管理職をしていたようだから今風にいえば中流の上という生活レベルだったのだろう。貧乏とはおよそ縁の無い家庭だった。

無論、私はM君の家庭と比べて貧乏を毛嫌いしていた訳ではなかった。極、普通の一般家庭と比べて、といっても何処が普通なのか分かる筈もないが、とにかく、近所や学校友達の知る限りの家庭と比べて自分の家ほど惨めな所を、それまでは知らなかった。

 

それでも、貧乏は仕方がないこととして受け入れられたし、他人に知られなければどうということはないと思えたので、決して友人を自分の家に招きいれることは無かった。そんな訳で私にとっては、家にいるより学校や友達の家に遊びに行っていることが心安らぐ時間だった。

確か小学校四年生の頃だったと思うが、進級するに当たって新しく教科書が必要になった。当時はまだ今のように無償支給ではなく、個人負担で教科書を揃えなければならなかったが、貧乏のどん底にあった私の家では教科書代に事欠くありさまだった。

記憶が定かではないが、とにかく同級生の女の子の家に、その子の兄の教科書があり、殆どそのまま使えるからと言う事で譲り受けに行った記憶がある。

 

考えてみれば使える教科書ならその同級生の女の子も使える訳だが、その子は新しく買い揃えるので余って捨てるしかないと言うことだった。

私には恥も外聞も無い、残された道も一つしか無かったので、その子の家まで引き取りに行ったが、決してその子の家が普通以上の特別裕福な家庭ということではなかった。

長いお下げ髪の女の子で、教室では私の前に席が在ったことと、偶然その子の名前が母と同じだったこともあって、悪戯もしたが仲良くしてもらったことが記憶に残っている。

「長いお下げ髪」という流行歌があったが、その歌と共に今も時々思い出す少年期の思い出の一つとなっている。

 

  考えてみれば、自分は確かに貧乏だった。そのことを恥ずかしいこととして、ひた隠ししようとしていた自分がいじらしいが、本当は貧乏が恥ずかしいことではなく、そのことで卑屈になって歪んだ目で世の中を見つめ、生き方を誤ってしまうことこそ恥ずかしいことだったのだ。

 そのことをS君は私に無言で教えてくれた訳である。

 

  その後、私の家の貧乏を見かねた姉が、私を引き取ることになったので、小学校を卒業すると同時に名古屋の中学校へ転校した。その為、S君とは疎遠になり、二度と逢うことはなかった。

 風の便りにS君が病没したことを知ったが、中学生の死という余りにも早い友人の死が私には納得できなかった。

小学校の時、公園で撮ってもらった記念写真が彼の最後を止めるものになった訳だが、その時はつくづく『人と違ったことをするものではない。一人だけぽつんと離れて立っている写真は、彼のその後の不幸な人生を暗示していたのかも知れない。』と思い、その後も永らく縁起を担ぐように、友人や家族にもその話をして来たが、つい最近その考えが間違っていたと言うことに気付かされた。

 

  彼が私に教えてくれたのは、『貧乏は恥ずべきことではない。貧乏の為に卑屈になり生き方を誤ることこそ恥ずべきことだ。』 と言うことであって、彼と撮った記念写真にしても『他人と違うことをすると禄なことはない。』という迷信めいたことではなく、実は、貧乏は人の死を早めるということを物語っているのではないかという気がして来た。

 

何故そんな風に考えたかと言うと、当時はかなり裕福な家でないとカメラが無かったり、滅多なことで記念写真を撮る機会が無かった時代である。

それでも親戚縁者が多ければ、結構写真を撮る機会に出会っただろうが、S君の家は川下の河川敷に引っ越さねばならなかったことから察するに、親戚縁者の付き合いも少なかったのではなかろうか。貧乏な彼の家にカメラが有る筈もなく、公園のスナップ写真といえども彼にとっては貴重な記念写真の一枚になるものだったのではないか。

そんな大事な写真を写すのにふざけていられる筈が無い訳で、直立不動で晴れがましい表情をしていたのは至極、当然のことだったに違いない。

 

彼にとっては、こんな貴重な機会にふざけて肩を組んでいるクラスの仲間たちこそが信じられないくらい奇妙な振る舞いに見えたかもしれない。貧乏な中でもめげずに、明るく真剣に生きている彼の姿が今になって漸く理解できるとは情けない話だが、彼の家に経済的余裕が無かったばかりに、将来ある若者を死に追いやったのではないかとの思いがしてならない。

 

親や弟思いの彼のことだから、多分、体の具合が悪くても、ぎりぎりまで我慢しただろう。或いは、日頃の栄養摂取も行き届いていなかったかもしれない。当時は終戦後十年以上が経過していたとは言え、まだ、どん底で喘いでいる人達が自分たちの身近にも少なからずいたし、物資の足りない豊かさとは隔たりの有る時代だった。

かく言う私自身も貧乏な家庭で米の飯が三度三度口に入らない生活を強いられていた訳だから、大病にもならずに今日在ることを考えれば、心から感謝しなければならないと思う。実際、私も、少年期には貧しさの為に、歯の治療やちょっとした怪我、病気等は医者へ行くのが憚られたし、我慢してその内、何とかなるとやり過ごしてしまうことが多かった。

  現代の日本には極一部を除いて、そのような貧困は見当たらないかもしれない。多くは飽食と言われるくらいの豊かさの中にどっぷりと漬かっているのではないだろうか。

私達はもう少し目を開いて、この地球上の、せめてアジアの貧困を少しでも撲滅することを我がことのように考えなければならないのではないだろうか?

 

  S君が語り掛け、私に教えてくれたのは、『もっと長く生きたかった。この世から貧困を無くさなければ、この地球の何処かで、年若くして命の灯火を消される人が後を絶たないことになりますよ。』ということだったのかもしれないと最近、思うようになった。

 不思議なことに、もう四十年も前の一枚のスナップ写真が昨日のことのように脳裏に焼き付いて、奇妙な印象の直立不動のS君が貧乏は恥ずかしいことではないが、貧困は不幸を招くことを語り掛けて来た。

 今はどこかに潜り込んでしまって、探すのさえ億劫になる昔の写真だが、その写真を手にした訳でもないのに、記憶が鮮やかに甦って私の考え違いを正してくれたのは、何か『見えざる手』が古いスナップ写真を私の眼前に突きつけたように思えてならない。

 

 S君に心から感謝し、冥福を祈って合掌。

 

(続く)