何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第三章  改めて、生きるとは

 

一、生きていること

  

二、生命の流れ

 
三、善と悪と

  

四、生きることの意義

 

五、全ては借り物

 

 六、人間らしさとは

 

七、本質的価値

 

八、会社は何故変われないのか?

 

この項の標題は企業風土改革の重要さを、実話を基にした小説仕立てで説いたベストセラー(柴田 昌治著・日経新聞社)のタイトルと同じである。

 

筆者は自分が籍を置く会社の全社的な業務改革運動の中で、この著書を知り興味深く読ませて頂くとともに、深い感銘を得ました。その後、友人の勧めでこの著書の読者の集いに参加する機会を得て、その中で、多くの人達が今日の企業の在り方を危惧し、何とかしなければと大いに悩んでいることを知った訳です。

 

或る日の、読者の集いの会合で『会社を変革する為に何とかしたいと思い、職場の仲間に色々呼びかけるのだが、なかなか動いてくれない。良い考えだと賛同はしてくれるのだが、いざとなると、「貴方がしたら?」と結局はいいだしっぺにお鉢が回って来て、どうも思うように活動が進まない。』という悩みを訴えた人がいました。その人の悩みは痛いほど解るし、その日初めて出会った人ではあったが、同じ悩みを持つ仲間でもあり、他人事とは思えないので筆者はついでしゃばって、『会社を変えようなんて考えない方がよいのではないか。

まず、周囲の人達と自分達が何をしたいのか。会社に籍を置いているが、その会社の事業を通じて本当に自分は何をしたいと思うのか考えるべきだと思う。

 

会社を変えたって自分にとってどんな喜びがあるのか、今の世の中で仕事の成果が収入に直結し、正当に評価される所が本当にあるのだろうか?そんな状況では会社を変革することは余りにも労多くして実り少ないものなのではないか?とすると、人が行動を起こす原点は、自分が主体性を持って、取り組めるかどうかであり、正に自分が心底したいと望む所と方向が一致しなければならないのではないか?

 

自分達の目的は会社を変えることそのものではなく、会社の事業活動を通じて例えば、世の中の役に立ちたいとか、自分の才能を活かして評価されたいとかいう所に在るのではないか。

会社を変革すると言う目標は、所詮、外部から与えられたもので、自分のものになっていない限り人は行動を起こさないのではないか?

 

私はそう思うから実は、自分の職場でもそのように働きかけているのだが、残念ながら人徳が無いせいか、未だ目に見えた効果は上がっていない。ここへ来たのは自分の考えを確かめ、これからの活動のヒントを見つける為です。』との話をしました。

 

実際、職場風土を変えなければ、みんなが活き活きとして困難な仕事に果敢に挑戦できる状態にはならないことを実生活の中で痛感している訳である。

特に資材・購買というお金に絡む戦場では、お世辞は耳にしても、誉められることは少なく、常に不足を聞かされ、周囲の過度な期待に押しつぶされそうになるのが当たり前の世界になっている。

どんなに苦労してコストダウンという成果を引き出しても、常に、予算が甘かったのではないか、工夫次第ではもっとコストダウンできたのではないか?という空気が感じられ『次はもっと頑張ります。』と言わなければならない厳しい環境で、人は本当に活き活きと頑張り続けられるのだろうか?人間はそんな状況では息が詰まってしまうので、常に言い訳を考えなければならなくなるのではないだろうか。

 

少なくとも、外に向かって言い訳することは許されないだろうから、「自分は精一杯やったのだ。自分の力ではこれが限界だ。確かに自分より凄腕の人はいるかもしれないが、まあ、自分も人並み以上に努力したし、評価してもらって良い筈だ。」と自分に対して言い分けをすることになる。これでは折角頑張ってやっていることが何だか虚しいものになってしまうのではないだろうか。

 

 事実、筆者もそのような心の病にいつしか冒されていたというべきだろう。資材・購買業務に限らず、販売であれ、生産であれ、目標数値に縛られて、その達成が仕事の目的になってしまいキュウキュウとしている職場は案外多いのではないだろうか。

 

これまでの管理社会は目標を設定して、いかにして効率よくその数字を達成するかというマネジメントが幅を利かせていた訳だから、管理の枠からはみ出して生きることなど、およそ考えられなかった筈だ。営利企業は尚更のこと継続発展する為に適度な利益を上げなければならないのは自明のことだから、それらの数値目標もないがしろにはできないだろう。

 

問題は何をやって利益をあげるかであり、そうやって上げた利益をどのように使うのか?そこに企業として為すべき役割や社会的責任が在る筈である。それは又、企業としての会社の責任であると同時に、その会社に縁有って籍を置き仕事をすることになったひとりひとりにも、個人の役割と責任が有ると言うことだろう。

どんな仕事であっても、会社の向こうに見える役割や社会的責任を果たすことと、自分の心の叫び、自分が心底したいと思うことが統合できれば、活き活きと胸を張って生きられる筈だと思う。会社を構成するひとりひとりが、そのように本質的価値観に照らして主体となって行動を始めた時、その結果として会社は変わるのではないだろうか。

 

  問題はどのようにして一人一人の心の底に呼びかけ、叫びを湧き立たせるかということだろう。オフサイトミーティングはその一つの有効な方法だと思われるが、何故、ひとの心を動かす効果があるのだろうか?

 

九、本音を引き出すには

 

筆者自身、本音で正直な話ができる場を余り多く経験したことが無かったが、前述の読者の集いや異業種交流会ではかなり正直に自分の考えを吐露し、相手の身になって心からのアドバイスをできたと思っている。

何故、本音で話ができるのかを考えてみると、先ず、直接的な利害関係が無いこと。むしろ、同病相憐れむに似て相手の痛みが解ることが理由のひとつだろう。今一つは、お互いに相手を批判したり非難することが無く、熱心に相手の話に耳を傾けるという場が設定されていること。その二つが初めて顔を合わせた相手でありながら、妙な信頼感を産み出し、素直に話せる理由なのではないだろうか?

 

特に、異業種で利害関係が薄い集まりということが、安心感に繋がっているのかもしれない。同業者や競合関係のメンバーが参加している場合、多分、本音に迫るのがかなり困難になるのではないだろうか。

残念なことに、会社という組織の中では、一見、同じ目的で集まった集団だから利害を一致させることが容易にできそうなものだが、実際には個々人を夫々事業主とした共同体とも考えられるので、同じ職場に在っても、逆に本音を出し合って話をすることが困難になるのではないだろうか。

しかし、会社を変える為に企業風土を改革することは、本音で話し合える土壌づくりを抜きにしては実現不可能だといえるだろう。

 

それでは、どのようにして、個人事業主の集まりのような会社組織の中で、本音で話し合う場を創って行けばよいのだろうか?もし、本当に個人事業主のように、自己責任でことが運び、出てきた結果が夫々の行動の主体者に帰結するのであれば、多少本音が出なくても街の商店街の事業計画のように、同じ街に住むものとして或る種の連帯感が有る筈だから、工夫次第では何とかなるかもしれない。

しかし、残念なことに、現状、多く見られる会社では必ずしも出てきた結果が行動の主体者に帰結する制度には成っておらず、成果が正しく評価されたり、逆に結果責任を追及されることも少ないので、これまでの会社人間には自己責任も自律的行動も意識として希薄な状態になっているのではないだろうか。

 

それはまるで、のんびりと観光船に乗っている乗客のようなものかもしれない。その内、景色の良い所へ連れて行ってくれるだろう。じっと待っていれば良い。夜風の当たる甲板に出て風邪などひかぬように気をつけなければならないとか、今日の食事は不味かった。明日は美味しいものが食べられると良いなあ。朝食の献立は何だろうか等と夫々が全く別のことを考えて、ベッドに潜り込んでいるようなものかもしれない。

 

そんなのんきな乗客が、「どうやらこの船は調子が悪いらしい。コンパスも故障したようで、航海士も機関長も何やらバタバタしているようだが、でもまあ、そんなことは彼らに任せておけば良い。」などと考えても、観光船の乗客では仕方が無いのかもしれない。

しかし、会社というのは観光船ではなく、社会的役割という積み荷が有り、どのように責任を果たすかという目的地が有る貨物船のようなものだから、その乗員は全員が自分の持ち場で、自分なりに積み荷を目的地に届ける責任を負っている訳である。

 

貨物船の一部が故障したり、破損して浸水が始まったりしたら、その持ち場の乗員以外も力を合わせて対策を練り、速やかに処置しなければならない筈である。不幸にして一部の積み荷を投棄してでも沈没を免れなければならないとしたら、どの積み荷を処分すべきか本音で話し合わねばならない筈である。行く手に嵐が待ち受けていれば、できるだけ正確な情報を入手し、安全に航海できる最適な航路を選択し、速やかに舵をきらねばならない筈である。

 

勿論夫々の場合において専門家を信頼し判断を任せねばならないだろうが、全ての乗員がその判断や処置に関心を持ち心を一つにしなければ荒海を乗り越えることはおぼつかないだろう。そんな時、もし、乗員が自分だけは生き延びたいと利己的に考え、勝手な行動をとったり、自分は一所懸命頑張っている振りをして、他の乗員に多くの負担を掛けたりしていたら、間違いなく船は沈没の憂き目に遭うのではないだろうか。

 

このような困難に立ち向かう時、何よりも必要なのは利己的な考えを捨て、お互いに信頼することだろう。そうすれば目的を共有し、力を合わせて頑張ることができるのではないか。

その為に必要なのは事実を正しく伝える情報をお互いが共有することであり、私心を捨て公に奉ずるリーダーの出現が不可欠なのかもしれない。

 

  前出の読者の集いで、本の著者の柴田 昌治氏は『会社の風土改革は、結局、その会社のボスである社長の意識のレベル以上にはならない。どんなに高い理想を掲げても、ボスの想いや情熱のレベルがその改革の到達レベルを決定付けるようだ。』と話されていた。

 

筆者は経験豊かな柴田氏のお話に成る程そうかと納得させられたが、となると、現実のボスの資質によって風土改革の成否も左右されるという運命的な心細い話になってしまうのだろうか?

多分、この話はふたつのことを示唆しているのだろうと思う。詰まり、ひとつは、ボスを見極めて、ボスの目指す到達レベルを的確に把握して進めないと、それ以上のことは結局、無駄骨に終わるという消極的な考え方であり、いまひとつは目指すべき理想に近づける為、巧妙にボスを焚き付けてレベルアップを図れば、より高いレベルの改革を実現することが可能だという積極的な考え方である。

 

いずれにしろ、経営トップが何を望んでいるのかを的確に把握すること、その上で、改革を目論む推進主体者は自分達の目標とするレベルと経営トップの考えとを摺り合わせし、改革運動の取組み戦略を立てることが重要だということなのだろう。

 

ボスやリーダーに私心を捨て公に奉ずる気概の人物を得ることはキーポイントなのかもしれないが、不幸にして、現実のボスが例えば、新し物好きで改革などには結構前向きなのだが、自らリーダーシップを発揮して泥をかぶるような人物ではなかったら、全てを諦めなければならないというのでは『天は自ら助くる者を助く。』という言葉が死語になりかねない。

しかし、諦めるのは早過ぎる。少なくともトップダウンで改革を叫んでくれているのだから、幸運と考え、少し遠回りになるが、巧妙にボスを活用する情報作戦を立てて実行に移すことが良いのではないか。

 

  過日、ソビエト連邦が崩壊した際、時の大統領のゴルバチョフ氏は政治の中枢や共産党内の権力争いの中で、改革が一筋縄では行かないと悟り、一般大衆に情報を公開することによって世論を味方につけようとしたのだろう。ゴルバチョフ氏の意図した形で結末を迎えることはできなかったが、情報公開がソ連邦を結果的に解体へと追い込み革命に繋がったと筆者は思っている。

詰まり、大衆は真実を知った時、自ら危機を感じ取り行動に移す。

正に自己責任による行動を取ろうとするのではないだろうか。ソ連邦の場合、大衆が利己的でなかったかどうか、革命のリーダーが私心も無く純粋に国や民族を憂い行動を起こしたのか知る所ではない。

 

  会社などの組織でも、正しい情報を的確に伝えることができれば、一人一人を信頼して情報公開し、危機感を共有化できれば、元々同じ目的を共有して力を合わせることに異議を唱える向きは少ない筈であるから、素直に本音の話ができるようになるのではないか。

 長らく共に苦労してきた職場の仲間が人間としての本質的価値観に照らして、今一度結束することは必ず可能だと信じたい。

その為には正しい情報を的確に公開し、共有する手段と、その情報に基づいて自由にまじめな意見交換ができるコミニュケーションツールを備えることが必要だろう。又、そういった情報発信が誹謗中傷合戦にならないように、又、まじめな意見の発表を抑圧する歪んだ権力の影響を排除する為のルールづくりや制度の整備が必要になるだろう。

 

その為にはどうしてもボスの力を活用しなければならないかもしれない。それらの環境整備は一朝一夕には実現できないだろうから、個々の会社風土の実態や身の丈に合わせてことを進める綿密な計画が必要に違いない。その活動はボスの理解度や私心を捨てられるリーダーの有無、活用できる通信手段やコミニュケーションツールなどの条件によって大きく左右されるだろうが、最悪の条件では、一向宗(浄土真宗)の信者が小さな集落単位で『講』という名の勉強会を続けたことに学ぶことができるのではないだろうか。

 

熱心な改革推進者が先ず身近な人に語りかけ、じわじわと浸透させて行くと同時に、新たなグループリーダーを養成して自主的に学習する活動を定着させる方法である。

彼らが信徒を集め、自律集団として時の権力にも対抗する力を持ったのは、民衆の心に住み着いた不安感や危機感を共有できたことと、非人や賎民と呼ばれた何の望みも持てない最下層の人達にも、簡単にできる念仏を唱えるという分かり易い方法で、極楽往生の道を説いた画期的提案が功を奏したのかもしれない。

 しかし、その根底には、正確な情報をキチンと伝えて、みんなに考えさせるという当たり前の活動が親鸞聖人や多くの伝道師によって、粘り強く続けられたということを見逃してはならないだろう。

 

  現代は、その意味では、活字や電子メールなどの通信手段やコミニュケーションツールが普及しており、その気になれば一向宗の比ではない格段の速さで、多くの情報を広く伝えることが可能であるから、ボスにめぐまれなかったからといって失望することはないのではないだろうか。

 

(続く)