何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第二章 新たな価値観を求めて

      

一、京都国際会館への道

 

二、基調講演

 

三、解説

 

四、パネル・ディスカッション(第一部)

 

四の一、加藤 尚武氏の質問

        

四の二、キュンク氏の回答

 
四の三、立石 信雄氏の質問

       

四の四、キュンク氏の回答

  

四の五、中村 桂子氏の質問

 

四の六、キュンク氏の回答

 

五、パネルディスカッション(第二部)

 

立石氏

 「宗教について、三つの疑問を持っています。一つは、宗教の多様性は認めるが最近の宗教には正統派と非正統派が有るのだろうか?カルト集団についてはどうか?ということ。

 二つ目は、宗教の堕落という批判について何か反論があるのだろうか?

 そして、三つ目は、宗教の存在価値を訴えるべきだと思うが、様々な宗教がベクトルを合わせて世に示すべき価値とは一体いかなるものか?と言うことです。」

 

司会者

「キュンクさんは寛容の文化を強調しているが、正統とか異端とかがある時、寛容と言うのは、何処まで徹底できるだろうかも聴いてみたいと思います。」

 

キュンク氏

「宗教と擬似宗教、宗教に似たものがあります。例えばサッカー熱やお金を儲けることなども宗教と似ています。これに対してエセ宗教というべきものがあります。ナチや儀式などで逆転させるカルトやスターリン、毛沢東を崇拝させた共産主義等もエセ宗教です。

しかし、宗教は人間が考えたものですから、人間におこるものとして、マイナスも入り込むことがあります。

音楽は素晴らしいものですが、一方で、人間を戦場に駆り立てるのにも使われました。だからと言って音楽を否定する訳にはいかないでしょう。宗教もそういう面を持っています。

 

新しい宗教にも良いものがあります。

しかし、ファナティック(狂信的)なもの非人間的なものは宗教ではありません。人間を人間として扱わないものは本当の宗教ではありません。この判断基準で本当の宗教か否かを見極める事が出来ます。

 

異なった宗教が話し合ってより良い活動をする事が出来るようになってきました。平和を実現する為にできることが沢山あります。難しいことですがファナティックな宗教を主張する向きは段々減ってきています。

カトリックとプロテスタントは協力し合える様になってきました。仏教徒とも協力し合えるようになってきています。イスラムとの平和は未だ課題が多いようですが、エルサレムでもお互いの話し合いが必要だと思います。」

 

司会者

「宗教を一口では語れないようです。いんちき宗教や政治宗教、カルト等人間を人間として扱わないものは宗教ではないということです。

インチキ宗教は長続きしません。スターリン主義は八十年前後続きましたが、その後滅びました。宗教が喧嘩をすると新聞種になりますが、仲良くすると新聞には載りません。

今回の朝日新聞社の試みはメディアの倫理の芽がでたと言うことになるのでしょう。」

 

加藤氏

「経済人の倫理観は甘いと思う。企業の監査を見ても日本では監査が甘いと言わざるを得ない。ドイツでは監査人に労組のメンバーが参加するし、監査役は社長が任命してはならないと法律で定められています。

総会屋と訣別することをを徹底する上で日本の企業人にドイツのようなことを提案する気があるのかどうか立石さんにお尋ねしたい。」

 

立石氏

「監査に問題が有るということよりも、監査役を社長が任命すること。即ち、昇進制度に組み込まれていたという事が問題であったと思う。

(*筆者の注釈:改革提案をする気があるか否かを尋ねたのであって答えになっていないことを感じて)

これからは社外監査役を採用してチェックを強化する制度が必要と思うし、半数以上は社外監査役にするとか社長が経営の報告説明を監査役に定期的に実施することを義務づける等の法改正で対応する方向で企業も国と研究中です。

何か隠し立てすることがあって総会屋に付け込まれ問題となったのだと思いますが経営トップの弱さやお金で解決してきたことが過去にあったのだと思います。経済人として、是非とも正していかねばならないと考えています。

それから、昨今の、株主総会同時開催にしても、結果的に正当な株主さんの権利を奪うことになっているのでおいおい正していかねばならないと思います。」

 

中村氏

「立石さんにお尋ねします。企業活動としての日本主義も単なる日本主義というのではなく、やはり、効率主義、大量生産主義が二十世紀の価値観そのものだったと思います。それが極端になったのが日本主義ではないでしょうか?

今日の景気刺激策にしても、量と効率でしか語られていないと思います。根本のところが大切だと思いますが、本質的な議論になっていないのではないでしょうか?」

 

立石氏

「正に日本主義と言うことだと思います。先ほどキュンク先生が何故触れなかったのか?

効率主義、資源の無い日本は効率追求しか生きる道がなかったのだともいえます。反面、日本程人間を直視した経営は他に無かったと思います。今日のようなリターンの大きさだけを問う世界とは違っていました。

先刻の『やらずぼったくり』も絶対に無かったと思います。この辺りは強く反論しておきたいと思います。

日本の海外進出は、多くは現地の経済に組み込まれて社会の基盤を形成しており、厳しい時代にも何とか撤退せずに頑張っている経営者が多い筈です。」

 

中村氏

「効率を追求せざるを得なかったのはその通りだと思いますが、生きものの部分から見ると、そこまで効率が優先されるとしわ寄せが起こってきます。

戦後の日本はしわ寄せが起こるまで全ての面で効率を優先してきたのではないでしょうか?

正に行き過ぎた効率主義だったのではないでしょうか?」

 

(*筆者の注釈:日本の経済界は、海外進出に際し現地への開発援助を通して、大いに貢献してきたことを主張しますが、確かに、一部に現地の生活水準を高めたり、社会的インフラ整備をもたらしたといえるでしょうが、それとても、自分たち日本人の都合を優先し、日系企業のお金儲けに直結する資源や素材を手に入れる手段になっていることが多いと、指摘する向きがあります。ODAも日系企業にとって必要な道路や交通手段等に振向け、その仕事の殆どは紐付き援助で日系企業を太らせるものになっているとの指摘があります。

更には、キュンク氏の指摘するように、先の戦争責任を認めようとせず、新たに経済侵略を進めてきたというアジアの人達の指摘は決して無視できないものがあります。

日本が恩着せがましく、アジアの開発援助をしているという認識に立っていたら手痛いしっぺ返しに遭うに違いありません。)

 

司会者

「やらずぼったくりは、私が『相互性のない貿易や商売』を意訳して説明したもので、キュンク氏の言葉ではありません。

ジャパンバッシングといわれたように、互恵性の配慮に欠けていたのではないでしょうか?効率主義といいながら、実はそれを支えてきたのは労働時間が長いということだったのかもしれません。効率をあげてきたのは労働時間だったのではないでしょうか?

我々はその事を反省する必要がありそうです。」

 

キュンク氏

「私は日本主義の良い面も言っています。

敗戦のどん底の状態から立ち上がったのは賞賛に値することだと思いますし、そのことはヨーロッパ人も評価していますが、最近はマイナス面が目立っています。

著書について触れなかったのは外国から来て偉ぶって話をしていると思われたくなかったこともありますが、本を出した頃とは状況が変わってきていると思われたからです。

 

何かを神格化してしまうような場合、日本主義もそうですが、例えば、第三帝国とか大英帝国等等ですが、今やこれらの、国粋主義や民族的ナショナリズムが終ろうとしています。東西冷戦の構造が崩れ、ヨーロッパではもう戦争を起こせないようになってきました。

日本でも誰かが戦争をしようにも、勝手にはできない状態になっています。

しかし、経済戦争は別ですが最近著した、新しい書物にはもうジャパニズムと言う概念は相応しく無くなってきています。ペシミズム(厭世論)が台頭しているようです。」

 

司会者

「キュンク氏はその人柄でしょうか?必ず最初に相手の良い点を枕詞のように褒めてくれます。崩壊した共産主義のソ連についても、マルクスは立派だったと褒めています。

日本の良い点を言われても成長しません。我々は悪いと指摘された点を厳しく受け止めることが成長に繋がると思います。やはり、我々は厳しい批判を頂戴したと受け止めたいと思います。

 

さてそれでは、科学と宗教のあるべき協力関係とは一体どんなものなのでしょうか。

そのことを考えてみたいと思います。」

 

中村氏

「二十世紀は宗教が大切だといわれましたが、改めて考えると、逆に宗教が蔭を潜めて、むしろ、科学教ともいうべき時代だったのではないでしょうか。

科学が万能のような印象を与え、全てが遺伝子で説明できてしまうのではないかと、科学の外側にいる人達が期待していたのではないでしょうか。

その為に今日、科学に対する警戒心が過度に強くなっています。

毎日、生きものに接している現場の者としては、逆に、決してそうは思えません。科学があたかも宗教のようにはなり得ないし、そう考えて欲しくないと思います。

 

科学は事実を見ようとするものですが、結果的に宗教でいわれていることにエビデンス(証拠)を与えたり宗教を支援している様に見えます。しかし、例えば、お釈迦様が説かれたことは、凡人には無い閃きから来たものであって誰にでもできることではありません。やはり、お釈迦様は天才だったと言うべきでしょう。

今、たまたま誰にでも解るように具体的な形で示しているのが科学だと思うのです。

 

科学は皆さんが考える為の素材(事実)を提供しているのであって、証拠を示して説明するのが科学ではありません。」

 

キュンク氏

「生物の進化を研究して解ってきたことは必要性と自由な取り組み(組合せ?)です。何かルールはあるが、最初からこの方向に行くということは判らない。

人間の必然性、例えば、私が坐るとか立つとかいうことをだれも規定できません。自然科学はその点、判断が慎重でした。絶対的なものがありませんでした。

例えば『光』ですが、不思議なものではありましたが、最初は実体が解りませんでした。今日、それを物理の世界が実証しています。素材なのかエネルギーなのか解りませんでしたが、今やそれは同じものの違った側面であると認識されています。

 

カントはかなり早い段階で『理性は空間と結びついている。』と唱えました。全てのものを一つに纏めるものは何なのかとなると、科学では答えが出てきません。物理学者も世界の元はどうだったかということになると、そこは、分からないという控え目な態度になってきています。

 

科学の限界を認める態度、純粋理性では答えが出せない…死んだら全てがお終いかという問題についても…?そこに答えを出してくれるのが宗教でしょう」。

 

中村氏

「つい最近、バチカンが地動説のガリレオを認知し、次いで進化論のダーウィンを認めましたが、私は、宗教の頑迷さに大変興味を持ちました。

長い歴史の中で、時間を掛けて判断し評価する場所を持っている訳で、常に、人間が自然をどのように考えるのかとウォッチングして、ゆっくりと判断して取り込む場があるということに非常に興味があります。」

 

キュンク氏

「法王が認めないと市民権が得られないということだから独自の判断基準を維持する仕組みを持たなければならないと言うことなのかもしれません。

法王は『我々は間違いを犯したが、ガリレオも又、戦略上の誤りを犯した。』と言っています。

いつの世にも新しい未経験の問題が生起しますが、例えばピルについても九十%のカソリック教徒の若者が認めて支持しています。」

 

司会者

「キュンク氏は革新的な人ですから、どちらかというとバチカンさんから睨まれている所があります。

これまで科学の行いに対して宗教が断じて来たきらいがあります。お互いに謙虚になり、引くべき所、出るべきでない場というものがあると思います。

科学を極めれば極める程、宗教的な所が出てきます。科学で言う『生命(いのち)』と宗教でいう『いのち』は同一ではありません。

従って、宗教的いのちについて、科学はイエスともノーともいえないのです。」

 

 

(続く)