何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第二章 新たな価値観を求めて

      

一、京都国際会館への道

 

二、基調講演

 

三、解説

 

四、パネル・ディスカッション(第一部)

※パネリストの皆さんからキュンク氏の基調講演に関する質問や反論を頂戴し、それに答える形でディスカッションを進行

 

四の一、加藤 尚武氏の質問

       加藤 尚武氏:京都大学大学院教授。哲学・倫理学専攻。六十一歳。(当時)

 

 今日は二つの質問をしたいと思います。ひとつは「宗教は世界平和に、本当に役に立っているか?」ということと、いまひとつは「自然保護と言う概念は古い宗教には無かったのではないか?」ということです。

 

 過去の歴史を見ると紛争は宗教が火種を大きくしたのではないでしょうか?

 

 中東和平も、戦争を納めたのは宗教ではなく、政治力では無かっただろうか?パレスチナでもインド・パキスタンでもユーゴでも宗教がらみでなければもっと早く平和が戻ったのではないでしょうか?宗教が争いの火に油を注ぐ形で戦争を大きくしたのではないだろうか?宗教と宗教の間には平和は無いのではないかと思うのです?

 元々、宗教の良さは他を全て無視できるところにあるのではないでしょうか?

 

 キュンク氏は宗教間に平和がなかったら国家間の平和は実現しないといっていますが、全くの間違いだと思います。仮に、宗教と宗教の間に平和が無かったとしても、国と国の間には平和が必要だし、何としてでも平和を実現しなければならないでしょう。

 宗教が解り合うには一千年かかるかもしれません。千年戦争が続いたら地球はそんなには待てません。平和構築の為には、宗教は胸の奥に秘めて、社会の平和を実現することが必要だと思います。宗教を話題にしなければ平和は話し合いで実現できるかもしれません。宗教を持ち出さないことが平和への道ではないでしょうか?

 

 インドとパキスタンでではヒンヅーでもイスラムでもない共通の倫理、どちらでもない社会的ルールを作ることが必要だと思います。パレスチナのイスラム教徒が経営する工場でユダヤ教徒が楽しく働けるようだとしたら、宗教色の無い社会的ルールを持てるからだと思います。

 プロテスタントとカトリックの間に置いても、共通のルール、世俗的な倫理、宗教色の無い倫理を構築することが必要と考えます。生命倫理学という考え方です。

 多くの宗教から共通の倫理を引出すことは薔薇とチューリップが美しいからと言って、そこから美しさの素を抽出するようなものです。そんなことをしても、それは最早美しい花ではなくなる筈です。

キュンク氏の狙いは立派だと思いますが、その基本見通しに置いて間違っていると思うのです。

 

 あらゆる生命の共通性、共通の歴史、生命性の共通と言う概念は二十世紀にはいってから出て来たものです。昔の宗教や考え方には、そのような考え方はありませんでした。

 キリストや釈迦或いはソクラテスの教えに、自然環境の保護を問うても答えは見つからないと思います。キュンク氏に以上の二点を是非お尋ねしたいと思います。

 

司会者

 「加藤さんは平和の実現には宗教が全面に出るよりは、むしろ非宗教の方が現実的ではないかという疑問を投げかけました。

 

 宗教が話し合いで共通点を見出すことは決して容易ではありませんが、加藤さんの唱える宗教抜きの無地になることも又、同様に難しいのではないでしょうか?

 確かに科学が地球環境の危機を教えたとの指摘は正しいかもしれません。科学と宗教の間の問題もキュンクさんがどう答えるか興味深い所だと思います。」

 

四の二、キュンク氏の回答

 

 始めに、加藤教授から実に明確な対立点を提示して頂いたことに感謝致します。

 

 戦争の原因が宗教だけでは無かったこともその通りです。政治的、軍事的関わりが大きかったと思います。又、一方、これまでにも宗教が平和的な革命を支援したと言う史実も数多く見られました。宗教が大きな役割を果たした革命が沢山あったと思います。

 宗教が宗派の違いや制度で対立するのには私も反対しています。共同でルールを創るべきだと思います。

 

 イスラエルにおいて宗教がその役割を果たせなかったということはあったと思います。しかし、一方的に国境が定められるということでは、平和は実現しません。

 世俗的倫理に私は反対するものではありませんし、宗教を離れた倫理が存在するとも思っています。非宗教であっても良いと思います。寛容の精神が必要です。他の宗教に対しても寛容でなければならないと思います。宗教を抜きにするのではなく、宗教を巻込んでやっていくべきだと思います。無宗教も非宗教も互いに寛容の精神で臨むべきです。

 

 薔薇とチューリップも同じ大地に育っています。

 大地の力を借りて互いに共生しています。これらを混ぜ合わせて至上の美を求めてもそれは最早、花とは言えないでしょう。

 

司会者

「宗教引っ込め、政治引っ込めでは駄目だということがハッキリしました。お互いに寛容と協力が必要だということなのでしょう。

 

 宗教は信じている人達によって担われているものです。そこには政治家もいれば教育者も科学者も、様々な人達がいます。

 宗教宗教というと人が来なくなります。宗教と科学、どちらがどうとは言えない問題だと言うことなのでしょう。」

 

四の三、立石 信雄氏の質問

       立石 信雄氏:立石電機(オムロン)会長。日経連副会長。六十二歳(当時)

 

 私には以前から宗教に対して素朴な疑問があります。

 

 それはさておいて、今日は経済人という立場で、企業はどういう価値を創り出せば良いのかも含めてお聴きしたいと思います。

 最近の日本の混乱には目に余るものがあります。昔から持っていた日本人の礼儀正しさや潔さが失われてしまったようですが、一体、何時頃からこうなったのでしょうか?

 

 今日の不況は、節度を失った過剰投資の結果がもたらしたものだと思います。日本の経営者のモラルハザードが指摘されています。

 高度成長が終わりを告げ、低成長の時代に入ってグローバリゼーションが進み、日本全体がターニングポイントに差し掛かっているといわれます。

 

 いわゆるパラダイムシフトが迫られている訳です。

 一九九○年に、それまでの日本的経営の見直しが叫ばれ、経団連が改訂した『企業行動憲章』には「政治、行政との健全且つ正常な関係を保つこと」や「企業市民として社会貢献活動をすること」等が盛込まれています。二十一世紀の経営…未来への変革と共に企業倫理の重要性を指摘すると共に、企業行動十原則が提唱されています。

 

 その中には、社会的財サービスの安全性確保、公正な取引、社会とのコミニュケーション推進、企業情報の開示、環境問題への取組み、善き企業市民、社会貢献、従業員のゆとりと豊かさ、個性・人格尊重、反社会的勢力との対決、海外の文化習慣の尊重、経営トップの率先垂範などが謳われています。

 企業の使命は何か?共生と人間の尊厳を守ること。互いに共有する価値観、異なる価値観の調整、『企業は何の為に存在するのか?』そこで何の為に働くのか?

 

 ミッションの明確化と共有が大切だと思います。

 オムロンでは昭和三十六年に定めた社憲がありますが、「我々の働きで我々の生活を豊かにし、より良い社会を創る。本業を通して社会に貢献する。」という理念に基づいて『企業の公器性』を謳っています。

 利益というのは、提供する財サービスに満足してもらった結果として、その企業の社格を評価してもらい、更に成長する為に頂戴する原資であって、利益を上げること自体が目的ではなく、企業活動の結果と考えるべきものだと思います。

 

 日本には普遍的な倫理観として、「お天道様が見ていらっしゃる。」とか、汎神論やお蔭様の思想、地球と共に生きる。太陽の光を怖れ、感謝し、調和を図ろうとする心、足るを知れ、恥、潔さ等の考え方があったと思います。

 それらの価値観は遺伝子(DNA)のように日本人の心に刷り込まれてきた筈なのに何故、失われたのでしょうか?

 

 豊かさを手に入れるのと引き換えに「他人に迷惑を掛けなければ何をやってもよい」という利己主義、優勝劣敗の論が幅をきかし、世の中のお蔭があって今日在るという考え方が欠如してきています。

 感謝の心を失った、自分さえ良ければということでは、共生は実現できません。

企業も正に、同じ事で、経済原理だけでは成り立たないと思います。企業は言わば、社会を構成するサブシステムと言えます。社会の論理より集団の論理が勝っていたのではないでしょうか?

企業市民としての発想が必要な時代だと思います。

 

司会者

「経営者が立石さんの様な人ばかりだと問題は無いのではないでしょうか?

 

 しかし、どんなに立派な憲章も、行動原理も、それが紙に書かれているだけでは絵に描いた餅に過ぎません。それらをどうやって守り、実現するかが大切だと思います。個々では立派なのに全体となるとどうして悪くなるのか?集団エゴが出てこざるを得ないのが企業なのでしょうか?

今日の競争社会でどうやって倫理を実現するのか興味あるところです。」

 

 

四の四、キュンク氏の回答

 

 企業も又、生まれ変わらなければならない。一般でも通用する規範を持たなければならないと思います。立石さんのお話は素晴らしいものでした。メディアでは遅れています。メディアでも今の話のような規範づくりが必要だと思います。本日のような企画をした朝日新聞社のようにもっともっとメディアが為すべきことは多いと思います。

 

 金融の世界もキチンとした制裁を受けるべきでしょう。IMFにしても、公的な機関が支援することは市民の税金を使う訳で、投資も又、倫理と無関係ではありえません。

とにかく、実践が大切です。実現しようとする努力が必要です。頭で理解したものではなく、心で捕らえた倫理でなければなりません。

 

 倫理と企業は相容れないものではありません。

種々の確執が生まれてきますから、短期的には成績を上げられるかもしれませんが、長期的にはモラル無しでは信用を失いますのでモラルを考えざるをえません。

経営と倫理は深く関わっている訳です。

 

司会者

「親企業が下請け企業に同じように倫理的行動を採っているかを問いたいと思います。今日の競争社会では構造的にどうにもならないという現実があります。

日本だけでなく海外での経済活動も又、収奪があると思います。」

 

  

(続く)