何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第二章 新たな価値観を求めて

      

一、京都国際会館への道

 

二、基調講演

 

三、解説

   飯坂 良明氏:聖学院大学大学院教授。政治学、政治思想専攻。七十二歳。

(当時※二〇〇三年没)

 

 世の中には色々な文化や宗教があります。

 

 それらは、丁度、ひとつひとつが大きな山のようなものといえます。色んな違った文化や宗教には山の清水のように底流に共通のものが流れています。その基盤になっている精神的な拠り所を見通してみようではありませんか。

 今や、一国では解決できない問題が多いといえます。国は地球規模の問題を解決するには小さ過ぎるし、個人の足元を考えるには大き過ぎます。グローバルな協力によって世界の問題を考えるには共通の価値観、基本となるコンセンサスが必要だということです。今風に言えば正にパラダイムシフトが必要だということなのでしょう。

 

 第三の千年紀を迎えるに当たってキュンク氏は、一九九○年に出版した『地球倫理計画』という本の中で、妨げとなっているこれまでの悪しき先例、即ち、将来性のないスローガン(やり方)として以下の三つを二十一世紀に持ち込むべきでないと主張しています。

それは

1.     ソ連の国家主導型の社会主義

2.     アメリカのウォール街式の金融資本主義

3.     ジャパニスム(日本主義)

 これらは、ほぼ十年前の指摘ですが、既にソ連は崩壊しており、②項目は今日、問題になっているものです。彼が本日の基調講演で自らこの本の話を持ち出さなかったことは、ここが日本であり遠慮があったのかもしれません。或いは、自分の著書を宣伝するようで気が引けたのかもしれませんが、我々はこの指摘を謙虚に受けとめ、自ら反省しなければならないと考えます。

 

 彼はその著書の中で次のようなものをジャパニズムとして指摘しています。

①一切の配慮を欠いた法律、即ち、

 意訳すると「他を顧みない能率至上主義」と言うことでしょうか。

1.     原則無しの柔軟性、即ち

「御都合主義、便利主義、無節操な場当たり的対応」

2.     無責任な権威主義的指導、即ち

「上からの、権威をかさに着た押し付け」

3.     道徳的ビジョンを欠いた経営、即ち

「貪欲な営利主義」ここにおられる立石さんの所(オムロン)は違いますが

4.     相互性(互恵性)の無い貿易、商売、即ち

「やらずぼったくり」

5.     罪の自覚を欠いた戦争責任、

日本はドイツのように戦争責任をキチンと認めていない。金で解決しようとしている。日本主義は日本教という新興宗教(代用宗教)のようなものになっているのではないでしょうか。「日本株式会社」との指摘もあり、ここから脱却する事が必要と言うことだと思います。

 ところで日本には倫理とか道徳というものが無かったのでしょうか。

 

 決してそうではないと思いますが、日本では昔から忠だとか孝だとか、義、或いは誠とか和等を大切なこととして説いて来たと思います。ただし、個々の徳目を並べてはいるが、どれがどう関わるのかを明確にしていないようです。いわゆる徳目主義で、どの場合どれを優先するかはっきりしていない為、状況を踏まえた倫理判断はそこからは出て来ません。この為、道徳が混乱するか或いは勝手な序列をつけて都合の良いように利用することになり兼ねません。

 

 例えば、戦時中は『忠』を最高の価値として国家が民(臣民)に押し付けた訳です。

教育勅語にしても勅語ですから天皇が下されたものということになりますが、本来、喩え君主であろうとも守らねばならない道徳倫理的根源がある筈です。それを何と呼ぶかは別にして、何かがある筈で、それを守ろうとする時、初めて力となる訳です。みんなが納得して受け容れられるものでなければ本当の力にはなりません。

 

 その意味で、教育勅語は中味は良いことをいっているのに、前と後がよくない、丁度かびの生えたパンで美味しいハムなどを挟んだサンドイッチみたいなものだと思います。

 前文では天皇の祖先から下されたものだと言っており、後ろでは、いざと言う時には天皇に命を捧げて奉公しろと言っています。この為、戦後、中味は悪くないのに教育勅語の全てが否定され、反動で道徳教育も敬遠されたり信教の自由などとあいまって宗教や倫理についても教育現場から遠ざけられたいえるのではないでしょうか。

我々は何が真実の倫理かを見極める必要があると思います。

 

 日本人はよく建前と本音があるといいます。二重の使い分けで、公と私、内と外を上手に使い分けると言われます。悪事が露見しなければ何をやってもよいと考えているように外国の人から見られています。いわゆる『恥の文化』ですが、これでは地球倫理にはなり得ません。人が見ていないから悪いこととは知っていながらしてしまう。では困る訳で、地球倫理としては天地神明に誓ってとか、内なる心の倫理とかいうものが必要になって来ます。

 

 戦後の日本はアメリカからの個人主義や自由主義が急速に浸透しました。自由だとか権利が強調され、行き過ぎて利己主義になっているきらいもあります。

自由は義務が伴い、権利は責任が伴います。人権宣言は一方で人間の責務を強調しています。人権宣言は『人責宣言』というべきものと考えます。

 

『己の欲するところを人に施せ』という前向きな姿勢が必要で、他人に迷惑を掛けなければそれで良いのだということで終わってはいけないということだと思います。

人間と言う字は「人の間」と書きます。これからは『間(あいだ)』の問題を考えなければならないでしょう。

・貧しい人と富める者の間、即ち、南と北の問題

 ・男と女の間、即ち、パートナーシップ

・人間と自然の間、即ち、自然との共生や環境保護の問題

・現代人と未来人(子孫)の間、即ち、遺産としての地球や文化の問題

これらと正しく向き合う時、真に人間となるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

(続く)