何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第二章 新たな価値観を求めて

      

一、京都国際会館への道

 

二、基調講演

 ハンス・キュンク氏:ドイツのカトリック神学者。1928年スイス生まれ、七十歳。(当時)

 

  共通の価値観の確立が次の世紀にとって中心的課題となります。

 

新しい倫理の確立は一筋縄では行きません。スイス人である私が日本で講演すること、それだけでも難しいことです。言語だけでなく風俗習慣や文化が異なる中で、共通のもの、共通の部分を見出し確立することは決して容易ではありません。

ベートーベンの音楽等は世界のどこでも、誰にでも理解されます。

エトス(倫理)もそうだと思います。日本とヨーロッパとでは違うのでしょうか?本当に共通の倫理を持ち得ないのでしょうか?

 

 ヨーロッパ人は人間の中枢は脳に在ると考えています。これに対して、日本人は心臓にあると考えています。心は胸に在ると考えている訳です。だから死についても、考え方が異なります。しかし、ヨーロッパ人も「心臓が血を流す」とか心が躍るような時「心臓が笑う」と表現します。又、「ハートをハイデルベルクに置いてきた」といいますが、決して「脳を置いてきた」とはいいません。ヨーロッパでも感覚や気持ち、心に関することは心臓(胸)に在ると考えているようです。

 

  同じようなことが自然に対してもいえます。

ヨーロッパ人は自然と人間を切り離して考えますが、環境や資源などについて重大な関心をもって見ています。日本では昔から人間も自然の一部と考えています。そのくせ、人間が傷つくことに敏感ですが、自然については汚染しようが破壊されようが無頓着だといわれることがあります。

 

 日本とヨーロッパではメンタリティーが異なるのでしょうか?

 

そうではありません。私は近代人と前近代人の違いであって、国や地域の違いではないと考えます。日本人もヨーロッパ人もメンタリティーは程度の差こそあれ本質的な違いは無いと思っています。アマゾンを乱開発し搾取したのはヨーロッパ人です。メンタリティーが違わないとはいいませんが、その差は程度の違いであって本質的な違いではありません。

 

  個人の立場や集団への帰属意識などを考えると、ヨーロッパ人と日本人の違いが有るのは確かです。個人主義を基盤とするヨーロッパでも、極めて高い社会倫理を確立しており、逆に、仏教倫理は個人を基盤にしているといえるのではないでしょうか?どちらも必然的に生れ育った考え方なのだと思います。

 個人と社会の双方の倫理をヨーロッパも日本も必要としてきた訳で、正に今日、倫理という問題は異文化間、違う宗教間での話し合いが必要な時代になっているということだと思います。

 

  では何故この時期に倫理の確立が必要なのでしょうか?

 

どんな条件が整えば人間らしい生き方が続けられるのでしょうか?

もうすぐ次の世紀がやって来ますが、第三の千年紀に持続可能な生き方とはどんなものか、充実した幸福な生き方を続ける条件とはどんなものかを問い直す時機だといえます。日本でもこの問題に対する感受性が高まっており、新しい時代を迎えて、今までより強く世界政治や世界経済、世界テクノロジーなど全地球的規模で討議されるようになって来ています。

 倫理にも『地球倫理』が必要な時代で、グローバルなエトスが必要ということなのです。

 

  では地球倫理とは一体何なのでしょうか?

 

基本的なコンセンサス、絆となる価値観、確固たる尺度(行動基準)等のことで、これが無いとクライシス、堕落、混沌、独裁などが襲ってくることになります。世界共同体には地球倫理が必要だといえる訳です。

 地球倫理とは決して新しいものではありません。今までに無かった何物かを産み出そうというものでもありません。キリスト教であれ、イスラム教、ユダヤ教、ヒンヅー教或いは仏教であれ、あらゆる宗教には、その底流に基盤となる共通の理念が在ります。

  曰く「汝 殺すなかれ」、曰く「汝 盗むなかれ」曰く「汝 嘘をつくなかれ」等であり、東洋でも「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」等々どこにでも通用する、そして誰にでも理解できる考え方があります。

 

  私は宗教間の平和無くして国家間の平和はあり得ないと考えています。

宗教間の平和は対話無くしてあり得ません。対話は又、基礎的研究無くしてあり得ません。異なる宗教が色々ありますが、それらが共通のコンセンサスを得ない限り、平和は実現できません。宗教人であれ、そうでない人であっても、全ての人々に共通の理解ができるもの、それは、新しいイデオロギーでもないし、全てを混ぜ合わせた妥協の産物でもありません。

私はこれまでの幾つかの統一イデオロギーといったものに飽き飽きしています。

 

 過去とは違うもの、これまでの二千年とは違う、第三の千年紀に相応しい様々なドグマ(宗教の教義)や教えを含むものではありますが、倫理的ミニマミズムに置き換えようというものでもありません。我々の思想と行動の拠り所であり、信仰と人生の拠り所にしているものが沢山あります。これまでの仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教等々の中に共通して持っているものを見つけることが必要です。

 ミニマム、最小限の共通項を明らかにすることです。

信者と非信者の区別無く、普遍的に受け入れられるものを探求する必要があります。

それは、共通の基本的コンセンサスというべきもので、ごちゃ混ぜでもなければ、単なるミニマミズムでもありません。

 

  現在でも世界の二十五の地域で紛争が続いており、四十カ国の国々が関与しています。

貧困、飢餓、子供達の血と…自然破壊が減るどころか増大しています。社会福祉の崩壊、生態系の破壊、国家の瓦解が進んでいます。

  今こそ、平和的な共存の為のビジョンが必要であり、人類を倫理で結び付けた共同化が望まれます。それは現実的なものでなければなりません。過去、宗教が無力だったことは種々有ったかと思いますが、宗教こそが、そのことを守り育てる責任を持っていると思います。

  地球倫理は人類が呪われた方向に進もうとするのを抑制するものです。

 

一九九三年のシカゴで開催された世界宗教会議で「地球倫理宣言」が発表され、地球倫理という概念が提唱されて来ました。その後、文化、宗教、科学…等々、多くの専門家が、その考え方に賛同を表明しています。

  そして、人権と共に人間の義務についても言及したドキュメントが、数多く出てきています。それらの中に、権利と責任について述べたものが有りますが、往々にして、この二つを誤って対比しているものがあります。

 権利と義務のあいだの新しいバランスを考えなければなりません。権利だけでなく責任をも義務をも必要としています。

 

 人間の義務についての共同宣言、我々は人権を確立することを人類の義務と考えねばならないと想います。

重要なのは法的なレベルに留まるのではなく、倫理のレベルは心、即ち良識の問題であり、内的なものであるということであります。それは、心の持ちようの問題で、心そのものが変わらねばならないということであり、意識の刷新が必要だということなのです。

宗教だけでは、現在起きている経済・政治その他の諸問題を解決できないことを、私は知っています。中東紛争の今後についても、合意事項が生れても、それを実現すること(遂行:インプレメンテーション)が大切です。

 

守られることの無い条約は意味がありません。守られるようにする為には倫理が必要です。

 

人間の基本的欲求は『人間は誰でも人間らしく扱われたい。』ということです。

全ての人間は平等に扱われねばならないと言うことです。この命題は非常に一般的です。このように地球倫理の中核となる部分は一般的でなければなりません。もし、人間が自由を奪われたり、足で踏みにじられることがあったら、非人間的扱いは、宗教的、倫理的力を求めます。

人間は誰しも人間として扱われたい、尊厳を重んじ、権利を守ることを望みます。孔子の教えにもあります。人からして欲しくないことを他人にしてはならない。

「己の欲せざる所を人に施すことなかれ。」ということですが、これは又、「他の人がして欲しいことをしてあげなさい。」ということになる訳です。

 

このことは、あらゆる宗教、民族…すべてに当てはまることで、『黄金律』というべきです。これこそが地球倫理の中核をなすものといえます。

 そのほかにも色々ありますが、大きくは次の四つのことに纏められます。

  1. 非暴力(殺すな):どんな理由にせよ暴力で解決しようとしてはいけない。全ての生物に畏敬の念を持ち、寛容でなければならない。(環境問題、平和問題に繋がる。)

  2. 誠実な生き方(嘘をつくな):他との関わりで誠実であれ。政治家の問題でもある。

  3. 連帯と公正(盗むな):公正な経済秩序、先進国と開発途上国、北と南の問題

  4. パートナーシップ(淫らであるな)…同種から分化した男女も又、人間同志として良きパートナーと考えよ。

 『暴力を用いてはならない』

 暴力は増加傾向にあります。犯罪の若年化が進んでいますが、大人の世界の影響であり、ひとり一人を取り巻く環境と密接な関係があります。

 即ち、その子供が温かい環境に育まれて来たか、心を開くことを教えられているか、倫理、道徳を教わって来たかに関わっている訳です。

 

 子供はフィクションと現実の区別ができません。メディアはフィクションの世界なのに、現実と錯覚してしまうことになります。それでも人間の尊厳を教わっていたなら、生命に畏敬の念を植え付けられていたなら、暴力的にはならないと思います。

 

 人間は限りなく価値あるもので、保護されるべきものとヨーロッパ人は考えて来ました。

東洋人は、私達と共にこの星を棲み家とする動植物を大切にして来ました。それなのに、自分たちの滅亡を自ら招いてしまうようになっています。(核の問題)

 

 政治の面をみても、正直さや誠実さが欠如しています。

 

 アンケートによれば青少年が、政治に公正や誠実さを求めているのに、何と多くの政治家や団体が嘘をついて利用しようとしていることでしょうか。

 コマーシャリズムが蔓延しており、利害得失で行動する人が何と多いことでしょうか。

 

『嘘をついてはならない』誠実に語り、行動しなさい。 

 誠実がなければ信頼関係は生まれません。嘘を付く権利を持っている人は誰もいません。公正、正義が踏みにじられています。抑制の無い資本主義が精神的価値を骨抜きにしています。所有慾、物質を欲しがる心、すべてを得ようとし、権利をを主張し、責任を負わない…・

 基本的な教育、躾がきちんとされていないようです。

 

 何故、法の意識が低下したのでしょうか?法意識(罪の意識)の欠落がなぜ起こったのでしょうか?

 経済犯罪の増大は法的な処罰の強化では防げません。九七~九八%の人が自主的に法秩序を守ろうとしなければ効果が上がらないでしょう。

(*筆者の注釈:不心得者を二~三%以下にとどめないとダメだと言うこと?)法律だけでは何の役にも立たないということです。

 

 『汝、盗むなかれ』正しいことをしなさい。連帯の文化、連帯の信念…・

 『パートナーシップ』

 パートナーとしての女と男の関係を大切にしなさい。互いに愛しなさい。お互いに同じ権利をもっています。どこのどんな性も他の性を踏みにじったり、傷つけたりする権利は持っていないのです。

(*筆者の注釈:性別は生命が分化したものであり、全ての生命は互いに他に畏敬の念を持ち、尊重しあうべきで、人間の男女なら尚更のことだということ。)

 

 これらのことは決して過大な要求ではありません。

 地球倫理はイリュージョン(魔術や手品)ではありません。意識の変革が必要だと思います。この二十年の間に自分が変わったと思わない人はいない筈だと思います。

 経済とは何か?戦争と平和について、パートナーシップ、男と女等について自分の考え方が変わっていない人はいないでしょう。

(だからその気になれば意識は変えられる筈です)

 

 アイデアは、往々にして、始めは極端なものに思えるかもしれません。時に異端と排斥されるかもしれません。しかし、勇気を失ってはならないのです。同国人(スイス人)で戦争に参加する機会があり、彼は、戦場で人間が殺し合うことの恐ろしさと醜さを目の当たりにしました。無益なことに気が付き、負傷者が横たわる所に赤い十字の印をつけて行きました。

 

 それが赤十字運動の起こりとなった訳ですが、この赤十字の例のように、最初は極端なアイデアであっても、粘り強く取り組むことで実現したことが数多く有ります。

 地球倫理確立への取組みもそのようなもので、必ず実現できるものと確信しています。

()

 

(続く)