何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第一章 生きること・働くこと

                                                    

一、生きるとは

 

我々は一体何のためにこの世に『生』を受けたのだろうか?

 

毎日をあくせくし、抜け道の無いトンネルにいるような閉塞感の中で周囲に気兼ねして、それでいて何かに追いかけられるような強迫観念にさいなまれ、もがきながらふと我に返った時、一体何の為にこうも苦しみながら生き続けているのかという素朴な疑念が頭をもたげてくる。

この混沌とした時代に在って、一体どれだけの人が活き活きと自信に満ちた生活をしているのだろうか?

周囲を見渡しても俄かには答えが見つけられず、ただ黙々と生き続けている人や、そんな愚にもつかないことを考える暇等無いと答える人が多いように思えてならない。

 

自分が生まれたての時を想像してみよう。

 

その時既に、先天的に、夫々がこの世に持って出てきたものがあるかもしれないが、とにかく万人が万人、無邪気で素直な穢れの無い心を持っていたに違いない。不幸にして、いささかの障害を併せ持って生まれた人もいるだろうし、後にそのことで苦しみ、天をも怨む時が有ったとしても、生まれたその瞬間は、誰もが皆、心安らかだったに違いない。

何故、その時のように無欲で慎ましく生き続けることができないのか、一体どうすればそんな心安らかな生き方が取り戻せるのだろうか?

 

「生き残る為に競争に勝たねばならない。」といわれるが本当にそうなのだろうか?

 

知恵を出し、工夫をし、最大限の努力をしなければならないことは確かにあるだろう。何かを希求し、その実現を願うなら、行く手を阻む障害を乗り越える知恵と勇気と努力が必要だろう。

その為に切磋琢磨し、お互いに好影響を与える適度な競争は有益だろうが、しかし、行く手を見据えない闇雲の競争は、場合によっては不毛どころか破滅への道を歩むことになり兼ねない。

今一度、冒頭の素朴な疑問に確信に満ちた答えを見つけて置かねばならないという想いがしてならない。

 

『汝の隣人を愛せよ。』とは何と又、奥の深い言葉か?

 

皆が皆そのような気持ちで、自分の身の丈にあった形で良いから、ほんの少しでも努力すれば、あながち平和で安らぎの在る世の中は絵空事ではないに違いない。

そんなに欲張らなくても良いではないか?

そんなに進歩しなくても何も困らないではないか?

 

ちょっと周囲に気を配り、自分の事以外に目を向け、お互いに『足るを知る』心で助け合えば平和と安らぎは手の届く所に在るのではないだろうか?

 その為には先ず、自分が『何ものか』に生かされていることを知るべきだろう。

そして、その何ものかに大いに感謝すべきだろう。その上で自分の行く手を凝視しなければなるまい。

 

二、豊かさとは

 

何が『争い』を生むのか?何が平和を乱すのか?

 

悪が在るからその対極として善が在るということなのかもしれないし、動乱が在るから平和が貴重で、その存在感を増すというようなややこしい理屈は無用だろう。それが神の思し召しだとしても、我々にとっては諸悪が滅び平和が永続することが即ち善だと考えるのが自然だろう。

では諸悪の根元は何か?人間の持っている性(さが)とか宿縁や業といったものだろうか?

 

 ここで宗教を論ずる気持ちは無い。とてもそのようなことを論じる力もなければ柄でもない。人間が心の深奥に様々な欲望や本能を持っており、それがその人の行動に深く関わって来るのだろうことは理解できるし、自分の欲望を押さえ切れずに、時に愚行を重ねる愚かさを実感できるのは私だけでもあるまい。

しかし、それらの欲望や、もって生まれた本能的欲求とは別に、心安らかな生を全うしたい。その為には「人が人として認められ、尊厳を保てるような生き方をしたい。」と考え、自分が人であるが故に「単に本能の赴くままに欲望を満たす。その為には手段を選ばないような行いはしたくない。」と考えるのが素直な心の在りようではないだろうか?

 

人が皆その様な『人として在りたい。』という欲求を本質的に持っているとしたなら、何故争いが生まれるのだろうか?

ひょっとすると、その根元は豊かさの裏返しの『貧困』ではないだろうか?

 

永らく人々は物質的な豊かさを追求してきた。

未だに、便利さや快適さを求めて技術革新を推し進めている。科学万能と思い上がり、生命(いのち)の領域にまで踏み込もうとしている。それらは本当に進歩とか成長とかいって礼賛してよいものかどうか疑ってみる必要があるのではないか?

 

在るがままに生きること、そのことをもっと真剣に考えてみる必要は無いのか?

 

こころの豊かさを満たす為のほんの少しの贅沢は安らぎを得るのに必要だろう。

だが、しかし、それ以上を望む前に、皆が助け合って平和に暮らす為に貧困を無くすことが必要だろう。その為に原始社会に戻る必要もあるまいが、他者を思いやる優しさや弱者へのいたわりを忘れてはなるまい。

 残念ながら、自分達の僅かな知恵では、生きていく為に他の生物の命を奪い、自然の形を変えざるを得ないことを自覚し、大いなる自然の恵みに感謝しなければなるまい。

 

全てが自然からの借り物であると認識し、壊さず、汚さず、無駄遣いしない為に出来る限りの努力をしなければなるまい。それが知恵を授かった人間の務めというものだろう。

今日、先進国といわれる国の民は、もう物質的な豊かさを追い求めるべきではあるまい。

これ以上取り返しのつかない愚を重ねてはならない。

 

少し外に目をやれば貧困の渕に喘ぐ多くの民がいる。これからは平和で安らぎのある生活を隣人と分かち合う為にこそ持てる技術を活かし、創意工夫を精一杯に引出すべきだろう。

貧困を滅ぼす為に大自然からの恵みを今少し借りなければならないだろうが、借りを小さくする為にも、大いに知恵を絞らねばないだろう。その為の競争は大いに歓迎される所だろう。我々が今後、より深く求めるべき豊かさとは、人間の魂に働きかけるような、精神的な豊かさであり、単なる物質の豊かさでもなければ、享楽的な欲求を満たすだけのものでもない。

 

 自然の恵みを素直に感謝できる豊かな心や、精神的な安らぎを与えてくれる普遍的な価値等の無形のものがより多く求められる時代である。

 これまでの過度な物質的豊かさ追求を反省し、精神的な安らぎを与えてくれる豊かさを得る為に、善い教えや伝統文化等、守り伝え育てるべきものが多い筈であり、自己の利益追求の為に他者の文化や伝統を軽視することは厳に慎まねばならない。

 

 止めど無い欲望を満たす為の豊かさ追求は時に、富の独占や偏在を招き、貧困や収奪を助長し、争いと不安と猜疑心を増大させ、暗黒の閉ざされた世界を出現させるに違いない。我々が希求して止まないのは平和で心安らかな安穏の世界である。

自分の得意な分野や領域で信念をもって、お互いがその実現に向けて努力すれば夢が現実になると信じたい。

貴方も共感できるなら、今からでも遅くはない。自分にできることから、自分に適した方法で気楽に、それでいてまじめに、平和で安らぎのある世の中の実現に向けて、一歩踏み出してみませんか?

そこには素晴らしい世界、生き生きとした自分が見つけられる筈だと思う。

 

三、経済とは

 

  『人はパンのみに生くるにあらず。』といわれるが、しかし、パンが無ければ生きられないことも事実である。

 

この世に生を享けた時、ただ生きる為に乳を求め懸命にむさぼった生命が、成長するにつれて大きく欲求を膨らませ、次第に生きる為以外の目的で贅沢三昧に耽けるように、いつの間にか真の目的を忘れ、ただ目先の利得や享楽を追い求めるようになるのは一体誰の仕業だろうか?

 

  原始社会では、自らの生活にいささかのゆとりを生じた時、人々は豊かさを求めて自然発生的に物・物交換を始めた。それが経済の起こりということらしいが、時に生活に必要な物資を自ら生産する代わりに、手っ取り早く他者から掠奪することで、争いも絶えなかったそうだ。果たしてそれも貧困の為せる業なのか、或いは動物との境目の無い弱肉強食という自然の摂理だったのかは定かではないが、いつからか人間は他者を思いやり、弱者をいたわる心を手に入れ、そこに文明や文化が育った。

 

  経済はいよいよ発展し、交易の範囲も益々広がり、物資も多彩で豊富になっていった。人々は豊かさを求めて勤労に励み、収穫に感謝すると共に、時に、牙を剥いて襲い掛かる大自然に畏敬の念を抱き、災厄の少なからんことを祈り続けた。

自らの身を守り災厄から逃れる為の知恵と工夫が、様々な道具や技術を産み出し、自分達にとって都合の良い豊かな社会を与えてくれたかに見える。民族や国々がより豊かな生活を手に入れる為に競って活動し、時に争い他を顧みることを忘れ、膨れ上がる欲求に追従するように経済は拡大して行った。

 

人々は自然の恵みが無尽蔵であると思い込み、自分達を育んでくれている自然の姿さえも変えてしまい、今や経済活動は人々の豊かで安らぎのある生活実現の為という目的を超えて、経済の為の経済になったのではないだろうか。

 即ち、生活の手段であった経済が、今や目的に成り代わってしまったのではないか?人々は又、自らを霊長類と称し、自然の頂点に立っていると錯覚し、自分達のルールや利害得失によって、他の生き物の生命を必要以上に奪ってきたのではないか。

 

科学技術や医学が目覚しい発展を見せて、全てを征服しコントロールできそうに見えても、次々と新たな脅威が生まれてくる。それどころか、人間が自ら創り出した、自然界には無かった化け物さえも顔を見せ始めた。もうこれ以上取り返しのつかないことをすべきではあるまい。

 

 我々は本当に必要以上の豊かさを望んだのだろうか?

 

人間の欲望にはきりが無い。それこそが化け物みたいなものだろうから、経済も平和で安らぎのもてる社会が維持できる以上に発展する必要はないに違いない。

 今一度経済活動の目的を振り返って、平和で安らぎのある世の中を実現する為に、貧困や不毛の争いを無くす為に、過度の物質的豊かさではなく精神的な心の豊かさを育てる為に、日頃の活動が少しでも役に立つよう頑張ってみようではないか。

 

四、国家とは

 

  国家とは一体如何なるものなのだろうか?

 

日頃、我々(日本人)は国家等、殆ど意識していない人が多い。少なくとも国家が自分にとって切っても切り離せない重要な存在だと意識することなど皆無に近い。

先ず、国が自分達に何かをしてくれているという感覚よりも、いつの間にか税金を取られていたり、新聞やテレビで国会だの政府だのといったニュースが飛び交う時、自分とは違う誰かが国だの政府だのを騒々しく騒ぎ立てているのだと気が付き、一体そのことと今日の自分の生活とがどのように繋がっているのかを、少しだけ振り返る位で、余りにも日常性とかけ離れている為、まるで他人事だと思ってしまうことが多い。

が、しかし、いつも自分が日本人であることを忘れたことは無いし、日本という国が国際社会で軽んじられたり、大国に振り回されて良いように利用されていると感じる時は、情けなくも悲しくなる。そんな時、自分が所属する国というものが、堂々と胸を張って自己主張できる強さを持って欲しいと思ってしまう。

 

自国の不甲斐なさに歯がゆい想いをし、いつか国威を示せたらと考えてしまうのは敗戦国で戦争放棄を憲法に謳っているからという訳でもあるまい。

 

戦後五十年(※七十年)以上も経った今日、最早、戦争を実体験として知っている人の方が少なくなり、国と国とが血で血を洗う戦いをすること等、映画やドラマの世界の作り事でしかないと思い、人と人とが憎み殺し合うことの愚かさ、醜さ、耐え難い恐怖等を目の当たりにすることが無い為に、国に命を捧げることがどんなことなのか?

 

命を捧げてまで守らなければならない国家とは何なのかが理解できないままに、ただ漠然と日本人であることを意識し、日本が栄えることが自分達の為だと考えてきたのは筆者だけではあるまい。

 

考えてみれば、自分が日本人であることさえ疑わしいではないか?

 

日本に生れ日本に育ったから日本人なのか?日本人の両親、日本人の血が身体に流れているから日本人なのか?

 一体、国家とは何なのか?ヨーロッパにしてもアメリカにしても、幾つかの民族が結束するように共同体としての国家を形作る場合が少なくない。

時々それらの多民族国家が分裂抗争を繰り広げ、ついこの前迄同じ国であったが故に、想像を絶する憎しみをぶつけ合うことが見受けられるが、殆ど単一民族が島国の中で肩を寄せ合うように生きてきた日本人には、およそ理解し難いことだ。

 

先般のワールドカップ(※一九九八年フランス大会)を見ても、国の威信を懸けてサッカーにしのぎを削る姿に、夫々の国民が夫々の国を想うのは極、自然のことかもしれないが、例えば優勝したフランスにしても、所謂、純粋なフランス人ばかりではない。黒人のフランス人も、かなりいることをワールドカップを観戦して初めて知ったのは筆者だけだろうか?

 

歴史の浅いアメリカが多民族国家で、アフリカから多くの黒人が奴隷として新大陸に駆り出されたことは殆どの人が知っている筈だ。

その為、アメリカやカナダが人種のるつぼとなっているのは誰もが知っていることといえそうだが、今や、ヨーロッパの国々も多民族国家といわないまでも、それ程までに民族の流動化が浸透しているのだろうか?

そう言えば単一民族のように思われてきた日本のチームにも黒人こそいなかったが、帰化した白人がメンバーにいたことを考えれば、今や国家等というのは、単なるひとつのくくりに過ぎず、それはまるで住所や地名のようなものに過ぎないのかもしれない。

 

今や国境は人々の活動を遮る壁でもなく、支配者が勢力範囲を示す為の目印でもなくなって、その存在意義は自分が立っている位置を知る為の区画表示に過ぎなくなったのかもしれない。

 

(続く)