何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第一章 生きること・働くこと

                                                    

一、生きるとは

 

二、豊かさとは

 

三、経済とは

 

 四、国家とは 

 

五、民族とは

 

国がその存在意義を失いつつも、同じ地域に住む隣組のように、地域住民の利益や権利を守る為の自治団体のような性格を強めて行くにつれて、同じ民族、血の繋がりに、より多くの共鳴する思いを強くするナショナリズムが台頭してくるのは避けられないのかもしれない。

最早、住所としての国家よりも、たとえ、流浪の民であったとしても同一民族としての共感を覚えることの方が、より強い結束力となり、民族意識は、時に排他的になり国家間の争い以上に苛烈な戦いを展開することになる。

 

  民族とは一体何なのだろうか?

 

先祖代々受け継いできた伝統とか文化習俗とか或いは、掟とか戒律とか誓とかいったものは、種族、血族を守り、子々孫々にまで栄えることを確かなものとする知恵なのだろう。

というよりも、そういった知恵で優れた種族が生き残り今日、存在するというべきなのかもしれない。

華僑とかユダヤとか、はたまた、移民とか難民とか、生まれ故郷を遠く離れ世界に散らばり、生活している人達が多くいるが、彼らは国を思っているのか民族を想っているのか?それとも、そのいずれをも考えず、自らの人生や家族や若しくは氏族を思っているのだろうか?

考えてみれば、民族も、血族も氏族も、その一断面ともいうべき家族さえも、ひとつのくくりに過ぎないのかもしれない。長い歴史の中で生命が分岐し、形を変え、文明や思想・習俗の違いを生み、溝を作り差別を生じた結果に過ぎないのではないか?

 

それはひょっとすると同じ身体にくっついている手と足の違いのようなものかもしれない。それどころか右手と左手の違いみたいなものかもしれない。もし、そうだとしたら、右手と左手が戦争するなんて、自分の体にとって何の益にもならないことで大騒ぎしているのに似ていはしないだろうか?

 右手族がギッチョといって馬鹿にし、左手族が希少価値を鼻に掛けて、自分達が選ばれた民だと思い上がっているのとどこが違うというのだ?

そのように考えると、ひょっとすると大自然という身体の一部に在って、霊長類だといって思い上がっている人類は、自然の中でささやかに暮らしているマウンテンゴリラやガラパゴス島のトカゲよりも愚かなのかもしれない。少なくとも人間が滅びた方が、彼等にとって住みよい世界になるだろうし、彼等の子孫も長生きできそうな気がしてならない。

 

人類は知恵を授かったのに、その知恵を生かしていないのかもしれない。

 

 繁栄とか豊かさとかを追求して多くの知恵を使ってきたようだが、一方で破滅へのスピードを加速してきたといえるのではないか。

多くの知恵を持たない他の種族(生命)の都合など頓着せず、自己の都合を最優先に自分の価値尺度で是非善悪を決してきたようだが、何が善で何が悪なのか、はなはだ怪しいといわざるを得ない。

 ひょっとすると、人類が存在すること、それ自体が悪なのかもしれない。

 

自分達は日頃、自分達の生活に都合が悪いからといって、いとも簡単に他の生命を害虫と称して殺したり、気味が悪いとかグロテスクといった自分勝手な理屈や価値観で、蛇やトカゲ等の爬虫類を隅っこに追いやったりしていることが多いと思う。

だからといって身体に止まって血を吸う蚊を友として可愛がるのが善と強弁するつもりは無いが、せめて同じ地球に生を享けたものとして必要以上に毛嫌いしたり、殺さずに何とか共生できないものなのだろうか。

 

  最早、民族だとか国家だとか所詮、人間が考え出した概念を振りかざして、人間同士が戦い争うことがどんなに空しく意味の無いことなのかを思い知るべきだろう。

全ては何者かに生かされているに過ぎないのだろうに。何故、自分だけで生きている等と錯覚し、自己の利害得失でしかものごとを判断できない人が多いのだろうか?

 

 親子の情や血をひく関係とか、或いは先祖を敬い子孫の行く末を憂れうといった命の流れを感じる部分が確かにある。

それを種の保存を求める本能だといったり、遺伝子の為せる業と断じたりするが、正にその通りかもしれない。

 宗教的には肉体はこの世の仮の姿であって、その深奥にある魂こそが本質なのだ。親子の関係も夫婦となるも全ては御仏の思し召し、或いは偶然の結果だから世の中に現れた姿や形にとらわれたり、引きずられたりしてはいけない等といった話もあるようだが、血族や親族に特別の情愛が湧くのは禁じ得ないことと思う。

 

人間は考える能力を授かっており、生命の尊さを知っている。

 

従って、民族や血族等といった枠を超えて、他者を思いやり弱者に手を差し伸べる賢明な生き方を見つけることができる筈であり、それが人としての道理(みち)であろう。

 

六、企業とは

 

  ところで一体、会社とか、企業とかいうのは何なのだろうか?

一般に営利を目的として事業活動をしているものを我々はそう呼んでいるようだが、そう考えるから『儲けること』が目的ということになってしまう。

 

税金で成り立っている国営企業や、宣伝目的のスポンサー付きの会社等は別として、企業が存続する為には利益を上げなければならないことに異論は無いだろう。

しかし、儲けるだけで使うことを知らなければ意味が無いのと同じように、何の為に儲けるのか、その目的もまた大切なことだ。

確かに事業を起こす時は『○○をやって儲けよう。』と考えるだろうし、初期の目的は自分や仲間の生活の糧を得ることだったかもしれない。

 その内、事業が拡大し会社とか企業とかの体を成してくると、ただ自分達の為にだけ事業活動をしているのでは存続できないことに気づく筈である。

 

特に経営トップといわれる賢明な人達は、自らの人生を考えると同時に社会に認知された企業の在り方を大いに考える筈である。

その時、生きることを問い直すのと同じように『企業とは何なのだろう?』と問いかけ、その目的を見つけようとするに違いない。

もし、金儲けだけが上手な人がいて、他を顧みることもなく、手に入れた富を自らの欲求を満足させることにしか使わなかったとしたら、その人は存在を許されるだろうか?

 

仮に生きて行くことができたとしても、決して平和で安らぎのある人生ではないに違いない。企業もまたひとりひとりの人間と同じようにどのように生きるかが問われるのであって、結果として利益さえ上げられれば存在が許されるというものではない。

企業のトップが事業活動の目的を単に利益を上げる為だけではないと気づいたら、その経営トップは自らの企業に所属し共に活動する人々に、その熱い想いを伝えて同じ目的で事業活動に邁進して欲しいと訴えることになる。まるで大きな船に乗った者達がユートピアを目指して力を合わせて船を漕ぐように、目的を共有し、苦労も喜びも分かち合って志を一つにした集団になれたら、正に力強い企業として発展するに違いない。

 

 逆説的にいえば、多くの人が共感し、自らの生きがいとしてその目的を共有できるような普遍的な企業のミッションを持つことが、素晴らしい企業になることへの確かな道であり、自分が共鳴できるミッションをもった会社に籍を置き活動できることが、幸いな人生を歩む道だといえるのではないか。

人は夫々、自分が経営トップでなかったとしても、夫々が籍を置き活動する土俵で、事業活動を通じて何か世の中の役に立つことを見出し、その目的に向かって邁進することが、その人にとって賢明な生き方になると確信するものである。

 

自分は会社での活動を通じて何をしたいのか?

 

そのしたいことと会社のミッションとも言うべき考え方・方向に差異は無いのか?企業には、そこに結集した多くの仲間に共鳴できる普遍的な考え・理念を示し、望ましい生き方を提供する義務があるといっても良い位だし、同じような価値観を持った人達が集まって活動する方が、企業にとっても望ましいに違いない。逆に、もし、共感できずに籍を置いているとしたら、お互いに不幸というべきだろう。

 

先頃、日本のビール業界のシェアで『永年トップを独走していた会社に替わって、Aビールが通年でも一位になった。これまで、単月の出荷販売量でトップに立ったことはあったが、到々通年でもトップになった。』というような話が新聞記事になったが、この業界でのシェア争いにしても、営利上の経営数値的な切り口で見れば、より大きなシェアを獲得するということは、売上が大きくなることであり、多くの消費者のニーズや情報を入手し、更に磨きを掛けられるということであり、所謂、規模の利益(スケールメリット)を他所より多く享受できるということであろうが、そんな切り口ではなく、ビールであれば、『自分達の造った美味いビールがより多くの人達に賞味して貰え、みんなに喜んでもらえ、より多くの人とハッピーな気持ちを分かち合える。

だから、もっと多くの人に、世界中の人達に喜んでもらいたい。その為にもっと美味しいビールにしたい。』と言う想いに繋がって行けば、その事業を通して実行しようとするミッションや価値観が、会社のそれと、個人のものとが融合し共有できるようになるのではないだろうか。

 

どんな事業にも、たとえそれが一見、営利目的のものであったとしても、世の中に評価され、生き残って行くものは、その事業に身を置く人々自身が有用なものとして評価し、納得できる何かがある筈だ。

もし、その事業に手を染めることに自分自身が納得がいかなかったら、それは人にも薦められないものだろうし、こころ穏やかに過ごせる筈がないだろう。

企業のトップと言われる人は、従業員やその家族等の事業に関係する諸々の人達に経済的な安定だけではなく、精神的な安らぎや納得の行く役割を演ずる舞台を提供する責務があると言えるのではないか。

 

七、利益とは

 

  利益とは企業が存続する為に必要な糧のようなものではないだろうか?

 

少なくとも、健全な民間企業というものは、事業を継続し、自ら存続する為には設備にしろ、技術にしろ新陳代謝し活力の有る状態を維持・向上させなければなるまい。

その為に必要な原資が利益ということになるのだろう。

それは人が人として生きる為に必要な糧を得るのと同じようなことで、時に、不幸に見舞われたり、条件が整わず不本意ながら他からの支援を受けたり、保護を受けることが必要な場合もあるが、健常な人であれば、夫々一人一人が自立できるようになるのが望ましいことであるのと同じことだろう。

 

企業も又、自主独立して営業することが一人前として認知され存続する為の前提(必要)条件であろう。

世の中には利益が得られなくても社会的に必要とされる事業も有るし、社会全体としてコストを負担してでも実行しなければならない事業もある。公共事業体や国策事業などのように、採算性だけでその存続の是非を問うべきでないものもある。

非営利団体や慈善事業のように利益を度外視した活動が、これまで以上に社会的に重要な役割を担うようになって来た。が、しかし、今日の社会では、いわゆる一般の民間企業が適度な利益を上げられなかったら、その存続を危うくすることも又、事実であろう。

 

結局、利益を上げるというのは、人が生存する為に食料を得るのと同じように、生理的欲求を満たすことに似ているといえないだろうか。

 食べて生き長らえることができれば、それで良いという訳ではあるまい。

 

 やはり人はどのように生きるかが問われるのであり、より次元の高い欲求を満たすことを望むのが人というものではないだろうか。

人がもし、飽食三昧、贅沢の限りを尽くし、自らを省みることが無かったとしたら、単なる醜いブタになってしまうのではないだろうか。

 

自分が活き活きと働き周囲の人々と生きる喜びを分かち合う為のほんの僅かの贅沢は必要だろうが、自然の恵みに感謝し足るを知ることが大切だろう。

あり余る収穫が有ったとしても、自分や身内や特定の一部の人達で独占し、貧困に喘ぐ人達を顧みないとしたら、そこには平和も安らぐことも無いに違いない。在るのは妬みやそねみであり、不安や恐れであり、争いやもめごとだろう。

 

素直に考えれば、人としての本質に問い掛ければ容易に理解できることが、何故、行いとして実行できないのだろうか?

これまでの世の中を覆ってきた価値観や、いつの間にか刷り込まれてきた考え方や行動原理に誤りは無かったのか?

 

これからはどのように考えどのように生きるべきか?今一度、一人一人が自分自身の深奥に在るものに問い掛けて確かめておく必要があるのではないだろうか。

 

 そのことは企業でも言えることだろう。

どんなことをしてでも、利益を上げぶくぶくと太り他を顧みることが無かったり、一部の関係者で富を独占し、大きいことは良いことだとばかりに振る舞ったとしたら、自由主義の競争社会だからといって、果たして評価されるだろうか。そんな筈はないだろう。

 

 生理的な欲求を満たすだけの低次元の企業に働く人達が、胸を張って活き活きとした社会生活を営めるとは、到底、思えない。やはり、企業もまた、どんな事業をどのように展開して適度な利益をあげるのか、その利益をどのように活かして、事業を通じてより善い社会の実現に貢献しようとするのかが問われる筈であろう。

 

詰まり、利益はそれ自体を得ることが目的のものではなく、事業活動を正しく営む為に必要な糧に他ならない。一般の企業は利益を上げなければ存続し得ないが利益を上げることが最終目的ではないと心得るべきだろう。

 

しかし、残念なことに今日の世の中には利己的な拝金主義が蔓延し、金さえあれば何でもできるような妄想に捕らわれている人が少なくないようだ。

 

何故、このように価値観や社会観が荒廃し歪曲してしまったのかと嘆かわしくなる。

長い年月に人の心に棲みつくように浸透した価値観や考え方を、一朝一夕に修正するのは困難かもしれないが、先ずは今、既に自分で考える力を備えた人達が、人としての本質的価値を正しく考え、素直に行動することから始めねばならないのだろう。

 

未だ考える力の無い者、或いは、これから価値観や社会観、人生観等を自分の中に形成して行く子供達に本質を見つめることの大切さを知らしめねばなるまい。

 

このように考えて来ると所謂、教育の持つ意義、その役割が如何に重要であるか、これまでの家庭や地域社会での子供たちとの関わりかたに問題が無かったか等、考えさせられる点が多いと思う。

 

(続く)