何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第一章 生きること・働くこと

                                                    

一、生きるとは

 

二、豊かさとは

 

三、経済とは

 

 四、国家とは 

 

五、民族とは

 

六、企業とは

  

七、利益とは

 

八、仕事とは

 

  企業が夫々、事業活動を通じた社会との関わり方を問われるのと同じように、我々も又、企業に参加し、仕事を通じて社会と関わって行くことを考えて置かねばならない。我々が毎日のように繰り返し携わっている仕事とは一体何なのか?どのように考え行動すれば良いのだろうか。

企業には心があるのだろうか?

 

昔からの老舗で代々伝わる家訓や行動原理等を持っている企業も少なくないが、世襲の同族企業でもない限り経営トップといわれる人が比較的短い期間で交替し、次々とリレーされる企業が多いだろう。

当然、人が代わり、代替わりすれば考え方も方針も変遷して行くことになるだろう。そんな中で企業が一個の人間のように考え方を確立し、継承して行くというのは生易しいことではあるまい。環境変化や時代によって求められるものが異なり、事業の領域や種類も変化を余儀なくされ、時には社会的に受け入れられる価値観さえも変化するかもしれないので、周囲と整合性のあるものに修正する必要も出てくるだろう。

 

  しかし、少なくとも、その時代に即して社会との関わり方をしっかりと見つめ、企業の理念や経営哲学として関係者が理解し共有している企業には、生きた心が在るに違いない。

そのような企業には単に、経営的数値目標を追いかけるだけではなく、事業を通じて何をしようとしているのか、その想いとしての使命感が在る筈だ。当然、それは従業員一人一人の仕事を通じて果たされる社会的使命であり、そこに集う人達の生きがいに通じる普遍的な行動原理のようなものに違いない。

 

 もし、自分の仕事にそのような熱い想いが見つけられなかったとしたら、その仕事は単に生活の糧を得る為の、悪く言えば、生理的欲求を満たすだけの低次元な作業と変わらなくなってしまい、生きがいを仕事以外の趣味や享楽的なことに求めなければならなくなるだろう。

 それは人生の多くを仕事に費やす人間にとって、働くことの真の喜びを見出せないという点で、不幸といわざるを得ない。

 

ところが残念なことに企業がそれ自体の使命を明確に認識していなかったり、利益をあげ成長することが即ち善であると誤認し、社会との関わり方等は煩わしいと考えたり、評価を受ける為の形式的な付き合いのように消極的になっていると思われる企業が案外多いのではないか。

 

昨今の社会現象のように、一流企業の経営トップといわれる人達の中にも、利己的で保身に走ったり、無責任に企業や周囲を食い物にしたり、利益第一主義で環境保護や省資源の為に必要なコスト負担を忌避するような活動を黙認した等の結果新聞やマスコミにニュースを提供している人達がいるようだ。

 

  では、不幸にしていま、自らが籍を置く企業に企業としての社会観や価値観が無かったり、何か淋しい、儲け主義しか感じられなかったとしたらどうすれば良いのだろうか?

 

自分の行動は自分が責任を持たねばならないことは自明の理だろう。

 

折角得た仕事だから、それが明らかに社会に害毒を流すものではないと信じられるならば、自分自身が所属する企業の社長になったつもりで自社の事業が社会にとってどんな形で役に立つのか、その事業を通じて社会とどのように関わって行けば良いのか、自分自身に問い掛けてみよう。

何かそこに自分がしたいことが見えてくる筈だ。権力を握ったものとして好き勝手なことをして銭儲けをし、私腹を肥やす人間などそこにはいない筈だ。

 素直な気持ちで人としての生き方を考えれば、より多くの人に平和で安らぎのある暮らしを提供したいという想い、そこに繋がる何か自分にできることが見えてくる筈だ。

その上で、今、自分が携わっている仕事や役割を考えればきっと生きがいに繋がる何かが発見できるだろう。

 

もし、そのようにして見つけた何かが貴方の所属する企業の上司や経営トップ或いは同僚などに共感を与えないとしたら、もう一度や二度は考え直してみよう。

 

自分の独り善がりであってはならないが、素直に人としての本質的な価値を見出そうと努力すれば必ず、共感の得られる普遍的な目的が見えてくる筈だから、それでも自分の望む所と周囲のそれがかけ離れているとなったら、自分のしたいこと、信ずる所に力を注げる場所を見つけ直す旅に出なければならないかもしれない。

仕事とはそういうものではないだろうか?

 

九、働くこととは

 

一般に仕事は職に就くということからスタートして、先輩や師匠、上司といった人達の世話になりながら学習し、技術や能力を養い身につけて行くことになる。

 

特に初期の段階は目上の人から色々指示を受けて見よう見まねで仕事をすることになり、又、仕事を企画したり、設計したりする人達よりも、定められた職務や業務といわれるものを計画やルールに沿って実行する人達の方が圧倒的に多い為、仕事は与えられるものと錯覚する人が少なくない。

確かに、自分勝手に方針や計画と異なる事をしたのでは、混乱して成果も上がらないかもしれない。従って、定められたことをキチンと履行できることが、基本であることは間違いないだろう。

だからと言って、指示されたことを黙々と実行することだけでは何か淋しい気がする。

それでは働いているのではなく、指示通り動いているに過ぎないのではないか。

 

 働くという字には人偏(ニンベン)がついているが、これはひょっとすると人が人として動くこと。詰まり、自分の意志で正しい方向に自分の能力を活かすことを意味しているのではないだろうか。

 

ただ他人の指図に従って動いているだけでは、刺激に反応している機械に過ぎず、達成感や高いハードルを乗り越えた時の感動などは得られないのではないか。

黙って従っていれば応分の分け前にはあずかれるかもしれないが、それでは生理的な欲求を満たす為にじっと我慢しているようなものではないだろうか。

 

勿論、生活の糧を得る為の単純労働が働くことではないと言うつもりはない。犬やサルでも生理的欲求を満たす為とはいえ、知恵や道具を使うことさえあるようだから、懸命に生きようとする努力はそれだけで素晴らしい行為なのだろう。

しかし、ここでいわんとするのは人間がより豊かさを求めて知恵を使い、物質的な豊かさを超えてより高いレベルの精神的豊かさを求めるようになってきたのと同じように、働くことにも生理的な欲求や物質的豊かさ追求の為の労働から心の豊かさ、精神的に充実感を得られる労働へと向かうことが賢く生きる知恵ではないかと言うことである。

 

但し、それは肉体的労働と知的労働の違いを云々しているものではない。

肉体を使う単純な作業であったとしても、その狙いとする所が、人としての精神的な充実感を満たしてくれるものであれば、それは精神的に高いレベルの労働だといいたいのである。

 

 例えば足の悪い人を背負って階段を昇ったり、溺れる人を救助するのに危険も顧みず懸命に激流に身を投じて救い出す等は、言ってみれば肉体労働でしかないかもしれない。

しかしその根底には自分がしなければならないという心の叫びがあり、自分の利害得失を超えた意志が働いている。

折角働くのならそういった、より次元の高い働きの場を見つけることが本当の満足に繋がるのではないだろうか。

 

結局のところ自分がそのことにどれだけの価値を見出せるかであり、価値を認められない人には理解できないことなのだろう。

享楽的なことや物質慾が強く、自分の行動を利害得失でしか判断できない人には、楽して儲けることが最も賢明な生き方に違いないだろうし、次元が高いも低いも無いということになるのだろう。

自分はそれで良いのだ。大きなお世話だ。美味いものを食べて面白おかしく楽しまなければ自分の人生が勿体無いと考えること。それも又、意識するしないに拘わらず、その人の価値観だろう。

 

 神様は悪人も善人も分け隔て無く創ったのかもしれないし、悪だとか善とか言うこと自体、人間が勝手に決めて勝手に騒いでいることなのかもしれないではないか。人間らしいなんて理屈は誰が考えたものだと言うのだ。片腹痛いということかもしれない。

 

それはきっと、より賢く生きる知恵であり、人間同士の争いごとを少なくし、平和で安らぎのある世の中にしようと思えば、その為の生活の知恵が必要で、そこに先人が心の、精神的働きを考え出した理由が有るのかもしれない

 

(続く)