PHP(201910月号)の裏表紙より、

『敵』

                                        加賀海 士郎

“冷めぬ夏 右に左に秋茜” 

 

暦では白露だと言うのに、ぶり返すように猛暑日が続く、台風が近づいているせいなのか、それとも温暖化のせいなのか、いつもなら甲子園の高校野球の終り頃には飛び交う秋茜が少し遅れて姿を見せたようだ。

 

夕暮れの空に染まるようにふわふわと飛び回る彼らは一体何を求めて暑い中を羽ばたいているのだろうか。連れ合いを求めてなのか食餌を探しているのか、暑い中をご苦労さん。

 

夕焼雲と赤とんぼ、烏が鳴くから帰ろう、と家路へ急いだのは少年期の日本の原風景。いまは駐車場でエヤコンをつけて遠いむかしを懐かしんでいる。

 

そう言えば、近頃の赤とんぼは随分色あせたように見えるが気のせいか、ひょっとすると都会の空気が悪いから茜色もくすんでしまったのかも?などと思いながら目にしたPHP10月号の裏表紙には標題とともに次のようなメッセージが書かれていました。

 

人が幸せな人生を送るには、敵対する者がいないほうがよいと思いがちだが、実際はそうではない。・・・中略・・・

 

個人ではなく、組織や国家であれば、なおさら敵は必要とされる。“仮想敵”という言葉があるのは、自分たちの成長を促(うなが)すためにわざわざ敵を想定し、その敵に勝つための戦略的な検討を行うことが、甚(はなは)だ有効だからである。

 

やはり敵はいないよりもいるほうが有意義と考えるのが、世の常なのであろう。

 

一方でわれわれは大切なことを忘れてはいないか。それは自分という“内なる敵”の存在である。

たとえば、目標達成のために努力している自分を、堕落(だらく)させる真犯人は、意志の弱いもう一人の自分であったりする。これは仮想ではなく、多くの人が実感している。だからこそ、人は不甲斐(ふがい)ない自分に落胆(らくたん)し、時に憤(いきどお)りすら覚えるのではなかろうか。

 

敵は一体誰なのか、見極めが肝心である。」

 

 

なるほど、好敵手がいる方が励みになって自らの成長に好影響を与えるのは理解できる。

しかし、彼我の力量の差が大き過ぎると挑戦することすら諦めてしまい、むしろ、自信喪失という弊害を生むかもしれない。

 

かと言って、身近なライバルにばかり気を取られていると大きく成長する将来性の芽を摘むことにもなり兼ねない。

 

やはり遠くを見据えながら切磋琢磨できるライバルに恵まれることが望ましいが、早々都合よく人生は運ばない。

 

肝心なのは自らの心の持ちようなのだ、くじけそうになった時、叱咤激励してくれる“内なる好敵手”を育てて置きたいものだ。

 

ところで“仮想敵”を設けて戦うのは何のためだろうか?

 

政治家が権力を我が物とするためか、目下の世情は、何とも危うい、前の大戦勃発の状況と似て来たのではないか。

 

どこで戦争が起こっても可笑しくないどころか、既に水面下では激しい戦闘が起こっているのかもしれない。覇権争いなどと面白がってみている場合じゃない

 

秋には赤とんぼが優雅に舞い、四季折々に美しく姿を変える日本の風景を次代に引き継がなければなるまい

(完)