『流石に水は変幻自在』       

古来、人は自然の営みに深い関心を寄せ、そこから人間の力では如何ともし難い何者かの力を感じ取ったり、賢明に生きる術を学んできました。

 中でも、川の流れや水に喩えた話や諺などが数多く知られていますが、物言わぬ水をあたかも意志を持った生きものの如くとらえ、その中から教訓を得ようとした先人の知恵と感性には、唯ただ、驚かされるばかりです。

水は人間の身近にあって、生きて行くには欠かせない存在であり、環境により変幻自在に形を変え、時に現れ、時に霧散し、身を潜めてしまう様は他に類を見ない所かと思われます。

 

 人間の身体の過半は水から成っているということですから、人は土に還えると言われますが、その実は、水から生まれ、水に育まれ、また水に還えると言うべきなのかもしれません。水には永遠の生命が宿るように、天から大地に降り注ぎ、せせらぎとなり或いは地に潜り、湧出して清水となり、集まって川となり大河の流れとなります。

時に、霧となり飛沫となって気化し、又、天に帰るものもありますが、多くは、まるで意志を持った生きもののようにひたすら海を目指します。 

 時に、行く手を阻む岩や障害が立ちはだかれば、それにぶつかり砕け散りもしますが、大概は巧妙に身をかわしその場をやり過ごします。

 実に自然の摂理とはいえ驚かされずにはいられません。川の流れの中に突出した岩が在れば、無謀にもその岩に食らいつき水飛沫となって華々しく雲散霧消する強者もあるでしょうが、多くは、ほんの少し遠回りをしても、その岩の脇をすり抜け、ひたすら目的地を目指します。誠に感心させられるのは、流れが岩に心ならずも身を二つに割かれたとしても、岩の脇をすり抜ける時に水は巧妙に流速を増し、何事も無かったかの如く、又、合流して目的地に向かうことです。

それだけでなく、唯、単に邪魔者を避けて通ったかに見えた水が、ほんの僅かずつでも岩に作用し、気の遠くなるような永い歳月の中で、荒々しい岩を角の取れた円熟の石に変えたり、幾つかの小石に分割してしまうのですから、それこそ正に『流石(さすが)』と言う他ないでしょう。

                   

 

『天敵、岩をも穿つ』

人の生き方も、この川の流れに似て、筋が通っているからといって唯ぶつかるばかりが能ではありません。

 次善の策に見える回り道であっても、正しく理に適ったことであれば、いずれ我を張る岩石も形を変えざるを得なくなる筈です。よしや不幸にして、自分が望み通りのものを完成させられなかったとしても、その目指す所に間違いが無ければ、必ず後進に受け継がれ、いずれは結実する筈だと思います。

『点滴、岩をも穿つ』の喩えと同じ事だと言えます。

ものごとを変革しようとする時も、それがたとえ正しい時代の流れであったとしても、強大な岩が行く手に立ちはだかることは少なくありません。流れを押しとどめようとする岩は、時に壁のような盤石で、これまでは、その岩のお蔭で正しいとされた流れがそこに在った筈

ですから、岩は岩で自らが正しいと信じて頑張っているに違いありません。従って、徒らにぶつかっても、雲散霧消の水飛沫となるだけで、下手をすれば犬死ということになり兼ねません。

 厄介なことに、この盤石の岩は、これまでの流れを守り変えないことを自らの使命と信じ込んでいる訳です。

 

『素直に生きる』

だからといって、いつまでもその前で渦巻いて淀んでいる訳には行かないので、水飛沫となり昇天し何度も何度も舞い戻ってぶつかるものや、地に潜って地下水となって大海を目指すものもあるでしょうが、ここは一番、次善の策として脇道をすり抜け、巧妙に衝突を避けるのも賢明な方法ではないでしょうか?

それこそが『流れ石』の極意というべきものだと教えられます。今、眼前に立ちはだかる岩は、ぶつかれば容易に崩れ落ちる砂岩や泥岩の類なのか、苔むすまでの巌なのかを見極め、

その上で、最善の方策を選択することを求められる場面が永い人生には随所に出て来るでしょう。せめて自分自身が、いつの間にか『イノベーションブロック』と

いわれる革新の阻害要因にならないように、自らの生き方や考え方を常に振り返り、問い直し反芻する事を忘れてはならないと言うことを水は教えてくれるのだと思います。 

時が流れれば環境は変化するのは誰もが知っていることです。何一つ変わらぬものは無い訳ですが、決して周囲や環境が自分の都合の良いように変わってくれる筈がありません。

 従って、環境の変化に合わせて変幻自在に自らを変化させることこそ求められる訳であります。

 正に、物言わぬ水が、自然体で素直に生きる大切さを教えてくれているのでしょう。

 常に現在に満足せず、己を過信しおごることなく、何ごとにも謙虚に学ぶ姿勢を失わず、水のような素直な生き方に努め、生命の流れを繋いでいくことを願ってやみません。

 学水舎はそんな生き方を希求する人達の学びの場だと言えます。(完)

 

 注)『学水舎』と言う名の塾や学校は実在しません。

 ここに掲げた考え方に賛同するものが二人以上集まって知恵を出し合う場(サイト)ができれば、そこが学水舎そのものなのです。