年が明けての初登山として、1月16日に大月市にある岩殿山~稚児落としに行って

来ました。

 

大月駅を午前9時15分に出発

 

桂川にかかる高月橋から見る岩殿山(別の名を岩殿城跡という)

 

登山口への途中、賑岡町忠霊塔があります。この階段を上がって忠霊塔に寄ってみましょう。

 

この忠霊塔は国家や君主のために忠義や忠誠をもって賑岡町から戦争に駆り出され、戦死した者の霊を称える塔と思われます。

 

畑倉登山口に着きました。ここから登山道になります。

 

岩殿山は右方向、左方向は鬼の岩屋。鬼の岩屋に寄ってみます。

 

鬼の岩屋。ここに十一面観音を祀った堂宇があった由。

 

左の立て看には『畑倉神宮 御祭神 畑倉大神』とあります。

 

岩殿山山頂 

 

山頂は岩殿城本丸跡でもある。

 

戦国時代、岩殿城は小山田信茂の居城であった。小山田信茂は当初、武田信玄の配下で、いろんな合戦で活躍したが、武田勝頼の代になって武田軍の勢いが衰え、勝頼が合戦で敗れ、岩殿城に入ろうとすると信茂は、突然、武田勝頼軍に発泡した。こうして信茂は武田氏を裏切って織田信長の配下になろうと織田軍を岩殿城に引き入れる。

 

岩殿城全体図から見て本丸は東側にある。

 

山頂(本丸)からの眺めは素晴らしい。岩殿山は634mあり、東京スカイツリーと

同じ高さ。

 

 

馬場跡

馬場跡は城内で最も広い場所であり、ここで馬や兵士の訓練をした。

 

岩殿城・南物見台からの眺め。

 

すぐ下には桂川に架かる高月橋が目の前に

 

倉岳山方面を望む。

 

頂部西端にある礫岩崩落の説明板

 

礫岩が崩落した個所

 

これから先は鎖場のあるコース

 

築坂は岩殿城の大手門があったところ。謂わば、岩殿城の入口

 

岩殿山(岩殿城)から稚児落としに行く途中の開けたところ。戦国時代、岩殿城は

織田軍に包囲され、辛うじて岩殿城から落ちのびた小山田信茂側室千鳥姫も赤子の

万生丸を抱いてここを通ったのでは。

 

第一鎖場。”あらえいと”にとってはファイトが湧く。

 

第二鎖場。ますますファイトが湧く。

 

よじ登った鎖場を見る。

 

 

織田軍に包囲された岩殿城から辛うじて落ちのびた小山田信茂側室千鳥姫、その赤子(万生丸)、信茂次男の賢一郎、護衛の小幡太郎もここで一休みし、振り返って、

かっての居城岩殿城を眺めたか。

岩殿山(岩殿城)を見る。

 

岩殿山~稚児落としの途中にある天神山 (588m)

 

富士山に雲がかかってきた。富士山右手の手前の山は高川山。

 

 

稚児落としに行くには林間ルートと岩場ルートがあります。ここは岩場ルートに進む。赤子を抱いた信茂側室千鳥姫一行は恐らく林間コースを通ったのでは。

 

危険標識。緊張! 緊張!

 

稚児落としの大絶壁を見る。

織田軍の岩殿城攻めに抗しきれず

小山田信茂側室千鳥姫、その赤子(万生丸)、信茂次男の賢一郎、護衛の小幡太郎は岩殿城からこの大絶壁まで逃げ落ちた。ここで今まで眠っていた万生丸が起きて

(お腹が空いたのか)泣き出した。

連れた赤子の泣き声が追っ手に聞こえると、追っ手が大挙して迫り、

信茂次男の賢一郎まで危うくなるので、

護衛の小幡太郎は千鳥姫から万生丸を取り上げ、谷底に投げ落とした。

小山田信茂側室の子・万生丸を谷底に投げ落としたという伝説からこの大絶壁を

”稚児落とし”と呼ぶようになった。

標高590mの稚児落としから恐る恐る稚児(赤子の万生丸)を投げ落としたという

谷底を見る。

 

(谷底を見ないで)顔を上げて正面を見ると、富士山が見えます。

 

大月駅へ

 

中央自動車道の下を通り

 

桂川にかかる浅利橋を渡ると

 

大月駅に午後2時過ぎに着きました。

 

大月駅の裏手にそびえる岩殿山に行って来ました。岩殿山には戦国時代、

この地を治めていた小山田信茂の居城、岩殿城本丸がありました。

岩殿山から稚児落としを経て、大月駅に戻るという定番コースは鎖場も何か所かあり、味わいのある山行を楽しめます。

岩殿山から見る富士山は素晴らしく、一見の価値はあると思いました。

戦国時代、稚児落としにまつわる千鳥姫とその赤子の物語に思いを馳せて稚児落としの大絶壁を眺めるのもいいものです。

 

(追記)【小山田信茂のその後】

長年、武田氏の忠臣であった小山田信茂は武田勝頼を裏切って、織田信長の配下に

なろうと織田氏に接触した際、織田勢の大将織田信忠は、信茂の面前で、長年、武田家の家臣として主君の武田氏に仕えてきたのに、その武田家を裏切ったことを厳しく非難し、その場で、小山田信茂の処刑を命じた。

小山田信茂は甲斐善光寺で8歳の嫡男、老母、妻、3歳の女子(娘)とともに一緒に

処刑された。享年44。こうして小山田氏は1582年に滅亡した。

 

tamatama