昔から盗賊、泥棒と言えば、石川五右衛門やねずみ小僧次郎吉が有名であるが、
青梅にも江戸時代中期、盗賊がいた。その名を“裏宿の七兵衛”という。青海駅から
青梅街道沿いに1.5kmほど西に行くと、裏宿町があり、七兵衛はここ、裏宿で生まれ育った百姓である。彼の生まれ育った地は今、七兵衛公園となっている。
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上は七兵衛公園入口、下は公園内。
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公園内の案内板にあるように、彼は義賊で、奪った金品は貧しい人に与えたという。
彼は昼間は真面目な百姓で、夜、盗賊になるわけであるが、地元では決して盗みをせず、秩父、八王子、甲州のような遠くまで行って、盗みを働いた。
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下は公園内にある七兵衛の供養塔と供養碑。
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供養碑には次の文が記されている。
“ 我が青梅市が生んだ熱血の侠児通称裏宿七兵衛は享保の頃より元文年間にかけて困窮せる庶民の救世主であった。たまたま当時の世相は凶作続き賤民は塗炭の苦しみの中にあった。為に近村の名主等相集い代官に訴えたのであるが、かえって入牢の上牢死せるもの数人を数えるに至った。生来義侠心に富んだ彼は決然として起ち百姓町人の膏血を絞り己のみ驕りに耽る強欲非道の不徳漢のみを襲ってその得た財貨は悉く之を不運に泣く貧民に名も告げずに与え、己は常に粗衣粗食に甘んじていた。然し天下の法は曲げることが出来ず温情ある幕吏も遂に彼を捕え元文4年(1739年)11月25日大柳河原において処刑し、その首を笹の門にさらした。付近の宗建寺代7世大湫和尚はいたく之を憐れんで厚く寺内に葬った。同寺の過去帳の一節は彼七兵衛の人柄を如実に表してあり轉た感無量あるのを禁じ得ない 法山祖幢信士位 年号不知 裏宿者也 俗名 七兵衛 
   由来不可尋 永々供養可致也
山里介山先生著 大菩薩峠が発刊されて以来裏宿七兵衛の人間味ある生涯はにわかに世人の注目することとなった。よって茲に里人有志相計り梅園町両自治会の協力を得てこの遺跡に供養碑を建立し以ってその義侠を後世に傳えんとするものである。  昭和35年11月27日 ”
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上は七兵衛が1739年に斬首された後、首がさらされた場所、“笹の門”。現在の住所で云えば住吉神社近くの住江町交叉点のところ。ある日、暴風雨のとき、首が台から落ち、川に流されて、宗建寺の門のところで引っかかった。その引っかかった首を寺の和尚が丁寧に葬った由。昔、川であったところは今、道路(写真↓)になっている。左手には寺の白壁が見える。
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宗建寺の墓地には七兵衛の墓がある。
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七兵衛は健脚で一晩に数十里も平気で走った由。そのためか、青梅マラソンの出場選手は勿論のこと、有名/一般スポーツ選手もこの墓によくお参りする由。
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七兵衛は今の青梅図書館のところにも畑を持っていた。大正時代にその地に
郡役所を建てることなり、その役所の建設中に事故が多発した。「七兵衛さんの祟りに違いない」と言いだすものもいた由。こうして彼を供養するため、その地に地蔵尊が祀られた。(写真↓)
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この七兵衛地蔵尊は昭和7年に建てられたが、ここもお参りする人、特に腰の悪い人のお参りが絶えない。青梅駅から七兵衛公園まで約1.5km、丁度青梅街道の裏に当たる通りを七兵衛通りと称して、地元の人はこの通りに愛着を持っているとのこと。
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七兵衛は中里介山の大菩薩峠に出てくる人物で、机竜之介とは相対し、お松を助け育てる俊足の七兵衛として描かれている。中里介山も裏宿の七兵衛が実在した盗賊か、架空の人物か、分からないまま、昔から言い伝えられた話を聞いて、本に登場させたのであろう。七兵衛が実在した人物と証明できたのは昭和26年に発見された『谷合氏見聞録』である。これは二俣尾の名主、谷合氏が1698年から1744年までの47年間にわたる出来事を詳細に記している一級の史料と言われる。これによれば、「1739年10月4日村山三ツ木にて裏宿七兵衛は小作大蔵、新町三左衛門、福生八衛門、日向和田村五兵衛ら男6人と共に捕えられ、10月12日、江戸に引き出され、11月25日七兵衛は牢屋で首を刎ねられ、首は青梅の笹の門に獄門懸けられた。羽村惣右衛門は斬り捨て、八左衛門は獄死、他は放免。七兵衛の女房は故郷の沢井村にお預け」と記されている由。見聞録は江戸の牢屋で斬首とあり、石碑には「青梅の大柳河原で処刑」とあるが、見聞録の方が正しいのだろう。
改めて青梅にもこんな人物が居たのか、とつい思ってしまう。

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