黒田官兵衛の「織田家臣時代
(ストーリー)
鳥取城攻めの同時期、天正810年の間に、毛利氏と結んだとされる淡路島の由良譲城主、安宅清康攻め、志知城から織田信長側に付いた阿波国の三好氏の支援などに、小西行長らとともに関わっている。
また天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、羽柴秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、黒田孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる。
 
(戦国武将の実力62)清水宗治(15371582) ~高松城兵救うため自刃~
 
羽柴秀吉の働きによって織田信長の勢力圏が西に延びていった天正10年(1582年)4月の段階で、毛利輝元領との境界は、備前と備中(ともに岡山県)の国境線あたりとなっていた。そこに毛利方は「境目(さかいめ)七城」とよばれる七つの城を置き、その中心的役割を担ったのが備中高松城(岡山市)で、城主は清水宗治(むねはる)だった。
 もともと宗治は、この地域の小戦国大名で、高松城主の石川久孝の家臣であったが、久孝およびその嗣子が相次いで没した後、自力で高松城主となって、その頃、勢力を伸ばしてきた毛利輝元の傘下に入り、小早川隆景の幕下に属していた。
 秀吉は、はじめ、高松城に力攻めをかけるのではなく、「味方をすれば、備中・備後の2国を与えよう」と調略を試みたが、宗治はきっぱり拒絶している。結局、水攻めがはじまることになり、6月3日を迎えた。その夜、本能寺の変で信長が討たれたことを知った秀吉は、毛利方の使僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)をよんで講和を急がせることになった。
 輝元側では、その少し前から落城は時間の問題とみて、講和交渉をはじめていたが、輝元が清水宗治を切腹させるわけにはいかないと、交渉が暗礁にのりあげていたのである。輝元としても、宗治の実力を高く評価していたことがわかる。秀吉方からの誘いを蹴り、毛利方にとどまっている宗治の心情を察していたものと思われる。
 信長の死を知った秀吉は、そのことが毛利方に知られる前に講和交渉を急がなければならないと考え、信長の死を隠したまま安国寺恵瓊を説いて、それまで示してきた領土割譲の条件をゆるめるとともに、「城主宗治が切腹すれば城兵の命を助けよう」との条件も示した。その話を聞いた宗治は、自らの判断で自刃を決意したという。
 翌4日、秀吉方から森高政が人質として毛利方に送られ、代わりに毛利方から小早川秀包(ひでかね)に桂広繁が添えられ、秀吉のもとに送られてきた。正午すぎ、宗治は城攻めをしている秀吉の陣所近くまで舟を漕(こ)ぎだし、舟の上で切腹した。このとき、城兵がどのくらいいたかは不明であるが、全員、命を助けられている。みごとな責任の取り方であった。
 
(戦国武将の評価:清水宗治
 
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小和田哲男  (おわだ・てつお)
静岡大学名誉教授。1944年、静岡県生まれ。専門は日本史、特に戦国史研究。今川氏家臣団の研究などで知られ、主著に「今川義元」「戦国の城」。
 
 読売新聞2013228 
 
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