本当のような嘘ブログです。
皆さんは毎週木曜日に放送している『プレバト』は観ていますか?
面白いので、知らない人は是非観てみてください。

僕は「水彩画」のコーナーが好きで、特に辻元舞さんを応援しているのですが、光宗薫さんとの一騎打ちの時なんかはハラハラしながら観ています!
というか発狂しています!!

最強芸術ママこと辻元舞さんの活躍をこれからも楽しみにしていますので、頑張ってください!
そしてプレバトの花形コーナーといえば「俳句」ですね!
夏井先生が俳句を作った人の背景を聞いた上で、添削していくのが毎回凄いな〜と感心してしまいます!
ということで、今回は
「奥の細道」
について話していこうと思います。

「奥の細道」とは俳人である松尾芭蕉の俳句の旅を日記のように書き綴ったもので、詠んだ句もあれば散文(文章のようなもの)もありました。
松尾芭蕉にとって「奥の細道」の目的は「歌枕」(昔の有名な俳人が詠んだ場所で、名所みたいな所)を巡っていく、いわゆる『聖地巡礼』で、2人のスーパースターの歌枕を巡りました。
それは
孤高の天才「西行」(さいぎょう)
と
旅するヒットメーカー「能因」(のういん)
という人物でした。
二人の足跡を追った「奥の細道」は約半年をかけた長い俳句旅だったのです。(主に西行の足跡をメインに巡っていきました。)
そんな「奥の細道」のルートをざっくり説明すると
《江戸の深川》を出発し、《栃木の日光》→《福島》→《宮城の松島》→《岩手の平泉》まで太平洋側を北上します。
そして岩手・宮城あたりから、山形県の山を越えて日本海側へ一気に横断するように山越えをします。
そこから 《山形の立石寺》など→《秋田の象潟》まで少し北上したあと、そこから一転して《新潟》→《富山》→《石川》→《福井》と、日本海沿いを南西方向に下っていきました。
最終的には《岐阜県の大垣》で旅を結びました。

車も電車もない時代にこんな長い距離を旅するなんて凄いですよね!!
しかし、このルート。
ちょっと不思議に思うんです。
実は西行や能因の歌枕は、他にもこのルート上の近くにいくつかあったのですが、そこへは立ち寄らず、このルートを辿ったのです。
奥の細道という聖地巡礼旅をしたのなら、歌枕は制覇したいですよね?
しかし制覇しなかった。
というよりも、
制覇できなかったのです。
実は、奥の細道というのは、表向きは松尾芭蕉の「聖地巡礼旅」でしたが、この旅の本当の主役は、同行した弟子「河合 曽良(かわい そら)」だったからです。
え?
どういうこと?

とお思いの方の気持ちよく分かります。
では、まずは河合曾良という人物について説明させてください。

河合曾良とは、松尾芭蕉の古参の弟子で俳句の実力も去ることながら、松尾芭蕉が身の回りのことを任せていた程、信頼を置いている弟子でした。
その為、「奥の細道」では地理や歌枕の場所など各地のナビゲーターやアドバイザーとしての役割も担っている「聖地巡礼旅」には必須のブレーン的な存在だったのです。
そんな河合曾良にはもう一つの顔がありました。
それは、「吉川神道」を心得ていた事です。

吉川神道は、
神道(日本古来の神への信仰)
と
儒教(目上の人を敬い、君主に忠義を尽くす)
をミックスした理論で、河合曾良は、この吉川神道をマスターしていたこともあり、後に「巡見使(じゅんけんし)の随員」(幕府の役人)に選ばれるほどの人物だったのです。
つまり河合曾良は、俳人としても弟子としても吉川神道としてもエリートだったのです。

しかし、エリートだけでは、「奥の細道」の真の主役とはなりませんよね。
では、河合曾良の旅の目的は何なのかというと、
「結界」を張ることだったのです。
え?
どういうこと?(パート2)
「心の結界」を張るために、「生の気」(プラスの心のエネルギー)をその場に定着させる事が出来れば、八幡宮の弱った吉相にはエネルギーを上げ、強まった凶相にはプラスのエネルギーで満たす事ができるのです。
そうして、日光東照宮の守護の力を強め、徳川幕府の繁栄を助ける。
その為に徳川幕府から河合曾良に要請があったのでした。

と言っても、吉相や凶相に「生の気」を定着させるのは簡単ではありません。
幕府公認の吉川神道の河合曾良はいますが、河合曾良だけでは意味がありません。
そもそも、「生の気」を定着させる為には大勢の人達の「気」が必要でした。
そこで、白羽の矢が立ったのが「松尾芭蕉」なのです。

松尾芭蕉は、「西行」や「能因」の推し活をするピュアなオタクでしたが、俳人として2人に引けを取らないスーパースターなので、当時「松尾芭蕉」を知らない人はいませんでした。
そんな松尾芭蕉が俳句旅をすると分かれば、松尾芭蕉が訪れる地域の人達は押し寄せてきます。
例えるなら、B'z、サザンオールスターズ、Mr.Children、GLAYが自分の地域でライブをするとなれば、とんでもないことですよね!!
それと同じくらい松尾芭蕉が来るというのは凄い事だったのです。
実際、松尾芭蕉が詠った時には大勢の人が集まって、凄く賑わっていました。

その賑わった人達の「生の気」をその場に留めて「心の結界」を張っていったのです。
と、ここでひとつ疑問が出てきます。
「奥の細道のルート」と何が関係あるのか???
ということです。
実は奥の細道のルートは八幡宮の
弱まった吉相
または
強まった凶相
だったのです。
それぞれの八幡宮の力を強めていき、それぞれを繋いでいく事で、大きくした「心の結界」で器を作ったのでした。
つまり、図で表すと下の図のようになります。
⇩

奥の細道は、深川から始まり、終わりは大垣ですが、結界を張るという旅の終わりは、実は山中温泉なのでした。
また、河合曾良の結界を張る旅では、日光東照宮自体に問題は無かったので、寄るつもりはありませんでしたが、あくまで「俳句旅」が目的だった松尾芭蕉にしてみれば、「日光東照宮は外せない」と懇願していました。
河合曾良も師匠である松尾芭蕉の想いを断る理由は無かったので、結界を張る本来のルートとは若干異なってしまいました。
そのようにして約半年をかけ、結界を張り終えた河合曾良は相当体力を使ったので、終点の山中温泉で持病の腹痛に見舞われ一時は旅を離脱しますが、師匠である松尾芭蕉の旅を見届けるために大垣で再開したのでした。
そして
深川⇐⇒安房神社
山中温泉⇐⇒京都御所
京都御所⇐⇒安房神社
を繋ぐことで、元々あった日光東照宮へ向かうエネルギーを漏らすことなく、結界の器の中に満たすことに成功しました。
結界を張ることでエネルギーが満たされていき、徳川8代将軍 徳川慶喜の代で財政がV字回復することにつながるのでした。

ところで、
光圀という存在は、「行き過ぎた綱吉のストッパー役」といったものでした。
「生類憐れみの令」を筆頭にやりすぎてしまっている綱吉に物申せたのは光圀だけでしたので、綱吉からすれば鬱陶しい存在でした。
そんな綱吉からすれば、光圀が将軍家を脅かす事になるかもしれないと思っても仕方のない事だったのかもしれません。
しかし、徳川5代将軍を決める際、綱吉を強く推薦したのは光圀だったのです。
もしかすると光圀は、綱吉に期待していた分、弱腰のような政策をしたり、将軍たる考えを持って欲しかったという思いから、綱吉に物申す事が多かったり、血縁関係では、叔父と甥という間柄でしたが、光圀にとって綱吉を息子のように思っていたのかもしれません。
光圀が隠居し、静かにその人生の幕を降ろした時には、綱吉は何を想ったのでしょうか?
いつの時代も親心は子供には理解できないのかもしれませんね。
そんな二人を知ってか知らずか、松尾芭蕉は後に、こんな句を詠んでいます。
「ちちのみの 親が教えや 秋の風」
解説: 「ちちのみの」は「父」にかかる枕詞です。
父が厳しく教えてくれたこと、あるいは父が願っていたこと。
その真意に気づいたときには、もう父はいなく、ただ秋の冷たい風が吹き抜けるだけという、松尾芭蕉の俳句としては珍しい親子のすれ違いを詠った句になります。
親孝行は色々とありますが、親の気持ちを理解し、自分にとって本当の親孝行の意味が分かり、それを実現したいときには、その親はもういない。
このもどかしさが昔からあるということは、きっと僕達の永遠の課題のひとつなのかもしれませんね。
という嘘です。








