皆さんこんにちは。
本当のような嘘ブログです。
突然ですが、皆さんは好きな俳優さん、女優さんはいますか?
綺麗な人がいると、つい見とれてしまいますよね!
綺麗な人というワードで思い浮かべる言葉は「秋田美人」があり、秋田美人で有名なのは、「壇蜜さん」「佐々木希さん」がまず挙がると思います。
そんな秋田美人こと壇蜜さんや佐々木希さんが実際目の前に現れたら目が離せなくなっちゃいそうですよね!!
なので今回は
『秋田美人』
について話していこうと思います。
秋田美人というのは皆さんも聞き馴染みのある言葉だと思いますが、なぜ「秋田」なのか?を考えたことはありますか?
よく言われる説として、秋田という雪国の寒さで肌が引き締まり、雪の降る地域なので雪の白さが肌に溶け込んでいる事で秋田の女性は美人になっている。
もう一つの説として秋田は他の地域に対して日照時間が少ないので肌が白く綺麗に保たれている。
というのがありますが、
寒さと雪であれば、秋田より上の青森や北海道の方がその条件により当てはまると思うんです。
ですが、青森美人や道産子美人なんて言わないですよね。
ましてや東北美人とも言わないです。
さらに
肌の白さと容姿端麗はイコールではないと思うんです。
ではなぜ、秋田美人と言われるのでしょうか?
それには、様々な人達が歴史の裏にいたと言われています。
今回はパートごとに分けてお話していきます。
【プロローグ】
「秋田県をつくり、秋田美人の礎を築いた『佐竹氏』」
佐竹氏とは源義光をルーツに持つ名門氏族(氏族とは同じ先祖を持つ血族集団)で、戦国時代には常陸国(ひたちのくに:今の茨城県)をほぼ統一した有力大名でした。
常陸国は歴史の教科書ではあまり目立ちませんが、実際には関東随一の強豪として知られています。
戦国史の中心は織田・豊臣・徳川、あるいは上杉・武田・北条といった大勢力に置かれがちですが、佐竹氏もそれらに匹敵する存在感を放っていました。
関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、徳川家康の勝利後に出羽国(でわのくに:今の秋田県)へと国替えを命じられます。
勢力も半分以下に落とましたが、佐竹氏という名門としての血筋は残され、藩主としての地位も維持されました。しかし「天下に関わる力」は奪われてしまったのです。
これは単なる国替えではなく、事実上の羽をもがれた状態での左遷であり、佐竹氏の歴史に大きな打撃となりました。
そんな佐竹氏は出羽国で再生を目指すことになります。
【芸術との出会い。そして美の目覚め】
佐竹氏は出羽国でも着々と勢力を拡大させていく一方で、違った側面での発展に向かおうとしていました。
それは「秋田蘭画(あきたらんが)」です。
秋田蘭画とは当時の日本には無かった西洋の手法を取り入れた絵で、後の日本の浮世絵に大きな影響を与えるものでした。
秋田蘭画の中心人物は「小田野直武(おだの なおたけ)」という久保田藩(秋田藩)の藩士で、江戸の天才発明家「平賀源内(ひらが げんない)」に絵の才能を見出されました。
そして藩主である「佐竹曙山(さたけ しょざん)」も絵の魅力に引き込まれるのでした。
秋田蘭画は主に「植物・鳥・風景」を科学的に描くというのがメインでしたが、小田野直武と佐竹曙山は女性の絵「美人画」にも注目していました。
しかし、女性特有の柔らかさ、魅力を絵に表すことが出来ずにいたのです。
美人画は数点しか出回っていませんが、作品として出されていない未完の絵がいくつもあると言われているのです。
【美人画を描くために商人に協力依頼】
美人画に悪戦苦闘している二人でしたが、藩主の佐竹曙山が商人に秋田県各地の美女を久保田藩の本拠地である現在の秋田市に連れてくるよう仕事を与えました。
そうして秋田蘭画はより一層飛躍していくのでした。
集められた女性達は久保田藩からお金が支給されますが、小額だった為、女性達は自ら仕事を探すことになります。
そんな女性達は、男どもが振り向くような美貌だったので、茶屋でも食事処でも宿でも、たちまち看板娘となり、あっという間に有名になりました。
【商人たちのビジネスチャンスと引き継がれた美への探求】
商人たちは、自分たちが連れてきた女性達がこんなに有名になるのであればと、店に対して仲介料を請求していくのですが、商人の中にはそれをビジネスとして始めるものもいました。
これにより、秋田県内の各地の商人が秋田市に殺到することになりました。
元々は久保田藩の小田野直武と佐竹曙山そして平賀源内から始まった「秋田蘭画」で、一時はブームとなりましたが、その歴史はおよそ5年ほどで3人の死を持って終焉を迎えることとなります。
しかし、美の探求は商人たちによって形を変えて引き継がれることになるのです。
【秋田の伝統ビジネスへの変化】
それからおよそ100年の時がすぎ商人達の美人ビジネスは繁栄していました。
歴史が長くなれば美人の定義も変わり、「美人」とは女性だけに限らず男性にも使われるようになっていたのでした。
秋田県内各地から美人が大勢集まれば、花柳界が発展していきます。
そして、その頃には色々な芸者を束ねる「置屋(おきや)」が沢山できるのでした。
この「置屋」とは、芸能プロダクションのようなもので、その「置屋」を統括する組合が2つに別れていました。
それが、
「花街(かがい)組合」
と
「芸妓(げいぎ)組合」
です。
「花街」とは、お茶屋と呼ばれる場所に客が訪れ、芸者や舞妓とお座敷遊びをするといったお店。
であるのに対して
「芸妓」とは、客がいる所に、芸者や舞妓が趣き、お座敷遊びをするという、コンパニオンみたいなものです。
ちなみに芸者や舞妓だけだと危険もあるかもしれないので、護衛兼楽器奏者で男性も一緒にいましたが、男性もイケメンだったので、女性客も一緒に楽しんでいました。
この「花街組合」と「芸妓組合」は対立こそしませんでしたが、交わることもありませんでした。
この両者にはそれぞれ有名な置屋があり、花街組合では「秋田美人茶会」、芸妓組合では「秋田美人商会」が二極として秋田県の花柳界に君臨していました。
(↑の写真はイメージです)
【秋田美人の慣用化】
そんな秋田花柳界での悩みのタネは、人材不足でした。
そこで、秋田県だけではなく、青森、岩手、宮城、山形、福島からも美人を集めることとなったのです。
そういった事もあり、東北一帯で顔がいい男女は秋田美人茶屋か秋田美人商会に行けば安泰となっていたので、候補となりそうな人は周りから「お前は秋田美人顔だから秋田に行って一花咲かせてこい」と言われていたのです。
東北の美人は秋田に集まるので当然、秋田の顔面偏差値も上がっていきます。
こうして、「秋田美人」という言葉は東北で定着していくのでした。
【大きな損害と転換】
その後、秋田で歴史的な大火が起きて大きな被害が出てしまい、秋田の花柳界にも大損害が出てしまいました。
その事がきっかけとなり、「秋田美人茶会」と「秋田美人商会」を筆頭に秋田の花柳界は統合することになり、現在の「川反芸者」へと繋がっていきます。
そして、江戸や京都に人材を派遣する方向へ転換することになり、秋田花柳界は日本の花柳界の底上げにひと役買うことになるのでした。
【スクラップ&ビルド】
しかし、当の秋田花柳界は人材が流れすぎてしまい以前のような盛り上がりは無くなってしまいましたが、「秋田美人」という言葉は残っていくのでした。
このようにして、「秋田美人」という言葉の裏には、佐竹氏から始まり、秋田蘭画、秋田花柳界へと形を変え、在り方を変えながら、羽をもがれようと、大きな被害にあおうと、また這い上がっていくという「スクラップ&ビルド」の歴史が刻まれているのです。
これを読んでいる方も、苦い過去があったり、今の現状が辛かったり、これから大変な未来が待ち受けていたとしても、
佐竹氏のように
必ず返り咲くという強い意志。
小田野直武の探究心。
秋田の商人たちのビジネス嗅覚。
秋田花柳界の芯の強さ。
のように
スクラップ&ビルドで
乗り越えてください。
「私達は雑草軍団です。
踏まれても蹴られても強く。
まさしく雑草でしょ。
ダイヤモンドじゃないんだ私は。」
(『川反花柳界のレジェンド芸者若勇』独占インタビュー動画より)
川反芸者・若勇さんに敬意を込めて、嘘をつかせて頂きました。













