以前、今の世の中を見ると子供にどんな教育をしていいのかわからない
だから学校に道徳教育も委ねてしまう。
そんな話を聞いたことがある。
僕は子供であれ部下であれ、時には仕事上の関係者にもこういうことが多い。
「恥ずかしい真似をするな」「恥ずかしくないの?」
具体的に怒ったところで出来る事は出来るし、出来ないことは出来ない
さらにいえば一度いって出来ないことは二度、三度いっても意味がないのである。
自分がそれをやめよう、やろう、出来るようになろうと思うかどうかである。
その原動力が恥である。
日本人は恥ずかしいと思えば改めるか、隠すかのどちらかの行動を取る
100%改めさせることは出来ないが半分は直させることが出来る訳である。
僕はある時期からバラエティー番組を見なくなったが
それは若手と呼ばれた芸人たちの芸がただの人の恥を笑うだけのものになっていた
からである。僕にはある危惧があった、人の恥を笑いに変えるというのは
そのことが恥ずかしい事だということを気付かなくなるのではないか?という危惧だ。
笑いには人を引き付ける力がある。そういった行動は恥を突っ込めば「笑いになる」という
側面を発見させることになる。案の定徐々に僕の身の回りでもおかしな言動が増え始めた。
自分の恥で笑いを取るのなら構わないのだが、多くの人は人の恥を見つけては
突っ込み始めたのである。
こういった状態が続けば日本という国そのものが中韓に近づいていく気がしている。
実はここからが本題なのだが・・・
僕が高校~から新入社員だったころ外交問題の主役はアメリカ・ロシアだった。
今ニュースを見ると、最近は中韓が外交問題の半分を占めているように感じる。
色々な中韓の行動を知るたびに頭をよぎる事がある。
新渡戸稲造の武士道である。
これを読んだのは20・・・2、3の頃だったと思うがその頃の僕の「 武士道 」という
書物への期待は「武士道とは死ぬことと見つけたり」といった、なんというか、こう
あのころの武士の精神論的なものだと思っていたが、内容をわかりやすく論文調にいうならば
明治から大正にかけて武士教育が日本人の精神構築に及ぼした影響
といったものである。
なぜ、これを中韓の話を聞く度に思い出すかと言えば、日本人の根幹は「 恥 」を
もっとも恐れる教育を江戸時代から一般庶民に対して教育されてきたのである。
西洋では道徳の教育は聖書に頼る所が大きい。
無神論者の多い日本人には少し理解しにくいところがあるかもしれないが
十分に役目を果たしている。
では中韓の道徳教育は何か?それは孔子、つまり論語である。
どんな教育にも側面的な見方というものがある。
だから孔子を批判して「だから今の中韓はダメなのだ」と言ったところで説得力はないかも
しれない。
だが、まー一応言っておこう。
論語の内容は確かに教科書に値する内容と言えるだろうと思う。
だが史記の内容や他の文献と合わせて考えてみるとまさに彼の悪い面だけが
残った結果が今の中韓だと思える。
分かりやすい一面でいうと
孔子という人は人に対する好き嫌いがはっきりした人で嫌いな人は挨拶されても
無視する、むしろ言葉を交わせば自分が汚れるといった事を平気で言う人である。
多くの宗教は当然、人としてあるべき姿を説いているものが多い。
だが実際の生活があり当然上下関係というモノがある。
だが社会の立場を離れたところでは人は平等であるというのも共通した認識である。
だが孔子はその才能、能力に関係なく先人や立場が上の者を敬うことを説いている。
これは生まれながらに人には上下関係が存在しているという事である。
また、社会的立場は人の価値という認識である。
はっきりいって孔子が聖人と言われるのには現代人の私には拒否感があるが
とにかくこういった悪い面だけが残った結果が現代の中韓とみる事も出来るのは
確かである。
彼らにとって日本は悪である、悪に対して無視するのはむしろ「正しい行動」である。
公職に就いたら賄賂を貰い公金の横領をする、当然である、なぜならば公職という
立場は一般人よりも敬われるのが当然の人間なのだ。
それに比べ日本の道徳教育の根底にあると新渡戸稲造が説いた「 武士道 」は
上記したように「恥」をもっとも恐れよという教育である。
もちろん社会的、環境的になにを恥とするかは変わってくるが
元々周りの文化を取り入れることに拒否感の少ない国民である日本人が
何を恥とするかは、元々日本人が恥としたモノ + 西洋諸国で恥とされることも
恐れる事になった。
いま日本の道徳文化が西洋諸国に賞賛される背景にはこれがあるとおもう。
他の国々がこれは良い事だからやっていい、これは悪い事だからやってはいけないと
いうのが他の国の道徳教育である。
その良い事悪い事が聖書であったり、コーランであったり、論語であるわけである。
まーいま中国では学校教育に道徳の授業は無いらしいので関係ないが、とにかく
そうなのである。
だが徐々に神そのものを信じなくなったり、言ってること自体が時代に則しなく
なっていく中で道徳教育としての力を失いつつあることも事実である。
それにくらべ日本の恥による教育は不変である。
それはいい事悪い事、そんなことは関係ない。
恥ずかしいことはするな!
これを徹底して叩き込まれるのである。
これも高度成長や戦後教育の中で変わりつつあるが、宗教に頼らない分
方針そのものは不変であり、世界に讃えられる日本の道徳感を支えているのである。
もちろんこれにも孔子のときと同じように側面として悪い面もある。
悪い面の最大の特徴は「 ひきこもり 」である。
色々言われているが引きこもりの最大の弊害は恥を意識しすぎた結果だと
私は思っている。
私が中、高のころも当然、無職の人というのは居たわけである。
しかし、アルバイトであれ職探しであれ、遊びであれ、とにかく交友関係まで断って
何年も部屋に引きこもっているなどという事は無かった。
インターネットの普及で可能になった事とはいえ、出歩くこととは関係が無いのである。
あるシンポジウムで発表された内容では
現に欧米諸国にも無色でネット依存症で出歩くことが少ない人という人はいるが
外出を極端に嫌がるという点はほとんど見受けられないという。
その違いはやはり無職であることの恥を極端に恐れるあまり人に見られないように
生きていける事に安堵を覚えると部分が多分にあるのだと思う。
つまり、何を恥として、なにを恥としないかこれを現代日本において
職を失ってしまう事は恥ではない、経済の浮き沈みの中で多くの人にありうることなのだ
という認識を、本来であればマスコミが牽引することで認知させていくことでしか
解決しないし、そうするのが正しいと思う。
このように恥を基本とした道徳教育が悪いのではなく、何を恥とするかの選別を
コントロールしていくことで日本はよりよい国へと変化出来るのである。
だから学校に道徳教育も委ねてしまう。
そんな話を聞いたことがある。
僕は子供であれ部下であれ、時には仕事上の関係者にもこういうことが多い。
「恥ずかしい真似をするな」「恥ずかしくないの?」
具体的に怒ったところで出来る事は出来るし、出来ないことは出来ない
さらにいえば一度いって出来ないことは二度、三度いっても意味がないのである。
自分がそれをやめよう、やろう、出来るようになろうと思うかどうかである。
その原動力が恥である。
日本人は恥ずかしいと思えば改めるか、隠すかのどちらかの行動を取る
100%改めさせることは出来ないが半分は直させることが出来る訳である。
僕はある時期からバラエティー番組を見なくなったが
それは若手と呼ばれた芸人たちの芸がただの人の恥を笑うだけのものになっていた
からである。僕にはある危惧があった、人の恥を笑いに変えるというのは
そのことが恥ずかしい事だということを気付かなくなるのではないか?という危惧だ。
笑いには人を引き付ける力がある。そういった行動は恥を突っ込めば「笑いになる」という
側面を発見させることになる。案の定徐々に僕の身の回りでもおかしな言動が増え始めた。
自分の恥で笑いを取るのなら構わないのだが、多くの人は人の恥を見つけては
突っ込み始めたのである。
こういった状態が続けば日本という国そのものが中韓に近づいていく気がしている。
実はここからが本題なのだが・・・
僕が高校~から新入社員だったころ外交問題の主役はアメリカ・ロシアだった。
今ニュースを見ると、最近は中韓が外交問題の半分を占めているように感じる。
色々な中韓の行動を知るたびに頭をよぎる事がある。
新渡戸稲造の武士道である。
これを読んだのは20・・・2、3の頃だったと思うがその頃の僕の「 武士道 」という
書物への期待は「武士道とは死ぬことと見つけたり」といった、なんというか、こう
あのころの武士の精神論的なものだと思っていたが、内容をわかりやすく論文調にいうならば
明治から大正にかけて武士教育が日本人の精神構築に及ぼした影響
といったものである。
なぜ、これを中韓の話を聞く度に思い出すかと言えば、日本人の根幹は「 恥 」を
もっとも恐れる教育を江戸時代から一般庶民に対して教育されてきたのである。
西洋では道徳の教育は聖書に頼る所が大きい。
無神論者の多い日本人には少し理解しにくいところがあるかもしれないが
十分に役目を果たしている。
では中韓の道徳教育は何か?それは孔子、つまり論語である。
どんな教育にも側面的な見方というものがある。
だから孔子を批判して「だから今の中韓はダメなのだ」と言ったところで説得力はないかも
しれない。
だが、まー一応言っておこう。
論語の内容は確かに教科書に値する内容と言えるだろうと思う。
だが史記の内容や他の文献と合わせて考えてみるとまさに彼の悪い面だけが
残った結果が今の中韓だと思える。
分かりやすい一面でいうと
孔子という人は人に対する好き嫌いがはっきりした人で嫌いな人は挨拶されても
無視する、むしろ言葉を交わせば自分が汚れるといった事を平気で言う人である。
多くの宗教は当然、人としてあるべき姿を説いているものが多い。
だが実際の生活があり当然上下関係というモノがある。
だが社会の立場を離れたところでは人は平等であるというのも共通した認識である。
だが孔子はその才能、能力に関係なく先人や立場が上の者を敬うことを説いている。
これは生まれながらに人には上下関係が存在しているという事である。
また、社会的立場は人の価値という認識である。
はっきりいって孔子が聖人と言われるのには現代人の私には拒否感があるが
とにかくこういった悪い面だけが残った結果が現代の中韓とみる事も出来るのは
確かである。
彼らにとって日本は悪である、悪に対して無視するのはむしろ「正しい行動」である。
公職に就いたら賄賂を貰い公金の横領をする、当然である、なぜならば公職という
立場は一般人よりも敬われるのが当然の人間なのだ。
それに比べ日本の道徳教育の根底にあると新渡戸稲造が説いた「 武士道 」は
上記したように「恥」をもっとも恐れよという教育である。
もちろん社会的、環境的になにを恥とするかは変わってくるが
元々周りの文化を取り入れることに拒否感の少ない国民である日本人が
何を恥とするかは、元々日本人が恥としたモノ + 西洋諸国で恥とされることも
恐れる事になった。
いま日本の道徳文化が西洋諸国に賞賛される背景にはこれがあるとおもう。
他の国々がこれは良い事だからやっていい、これは悪い事だからやってはいけないと
いうのが他の国の道徳教育である。
その良い事悪い事が聖書であったり、コーランであったり、論語であるわけである。
まーいま中国では学校教育に道徳の授業は無いらしいので関係ないが、とにかく
そうなのである。
だが徐々に神そのものを信じなくなったり、言ってること自体が時代に則しなく
なっていく中で道徳教育としての力を失いつつあることも事実である。
それにくらべ日本の恥による教育は不変である。
それはいい事悪い事、そんなことは関係ない。
恥ずかしいことはするな!
これを徹底して叩き込まれるのである。
これも高度成長や戦後教育の中で変わりつつあるが、宗教に頼らない分
方針そのものは不変であり、世界に讃えられる日本の道徳感を支えているのである。
もちろんこれにも孔子のときと同じように側面として悪い面もある。
悪い面の最大の特徴は「 ひきこもり 」である。
色々言われているが引きこもりの最大の弊害は恥を意識しすぎた結果だと
私は思っている。
私が中、高のころも当然、無職の人というのは居たわけである。
しかし、アルバイトであれ職探しであれ、遊びであれ、とにかく交友関係まで断って
何年も部屋に引きこもっているなどという事は無かった。
インターネットの普及で可能になった事とはいえ、出歩くこととは関係が無いのである。
あるシンポジウムで発表された内容では
現に欧米諸国にも無色でネット依存症で出歩くことが少ない人という人はいるが
外出を極端に嫌がるという点はほとんど見受けられないという。
その違いはやはり無職であることの恥を極端に恐れるあまり人に見られないように
生きていける事に安堵を覚えると部分が多分にあるのだと思う。
つまり、何を恥として、なにを恥としないかこれを現代日本において
職を失ってしまう事は恥ではない、経済の浮き沈みの中で多くの人にありうることなのだ
という認識を、本来であればマスコミが牽引することで認知させていくことでしか
解決しないし、そうするのが正しいと思う。
このように恥を基本とした道徳教育が悪いのではなく、何を恥とするかの選別を
コントロールしていくことで日本はよりよい国へと変化出来るのである。