1021番組後記 宮崎 | 岩に染み入る 蝉のーと

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蝉丸のつれづれ日記

団長ですおさる

今日もたくさんのメールサンクスでしたおさる

今日もみなさまに支えられた番組でしたねぽっ


昨日、夜に橋本に帰還後

編集作業に取りかかりパソコン汗;;

いつの間にか

三時間寝てしまいドキッ!!!

11時頃に編集完了…ガクリ

残った力を振り絞りあれぽろさんを召還怒りキノコ

まずは

城山もみじ祭り



ここで団長しこたま飲むふっビール

次に

愛川町合戦まつり




ここでお弁当をゲットふっおにぎり


次に

相模大野




DEEPSpaceNetwork収録アヒル隊長スナフキン




ここで時間は


15時・・・ガクガク

あ、あれぽろさん急げ!!Fiat500キノコ焦

15時半。

エフエムさがみ到着はーいおさる

ギリギリで番組終わり

番組後、急いで相模湖Fiat500キノコ焦

大名行列の練習は




終わってました…ガクリ


あれぽろさんと

12時間いた1日でした…おさるキノコ

あれぽろさん、ありがとうございましたうっ・・・



で。

番組後記的に

宮崎の事を少々。


私の故郷は、日南海岸と名付けられた海に面しています。

日の光を鏡のように反射する海は、私の幼い記憶に常にあり、当たり前のように浜風が感触にあります。

それは、私の実家がサーフショップだからではなく、この街に住む人々には大なり小なり記憶に刷り込まれている光景に過ぎない。


海と《津乃峰》と呼ばれる山がある、日本地図を見ればいくらでもありそうな街である。

この街の歴史は古い。

いや、歴史と呼べない。

神話、だ。

初代天皇の神武天皇の母親や馬の伝承があり、《遺跡》の様な視覚的なものではなく霞ががったモノが横たわる街である。

天皇家が畿内に移ると

暫し空白があり、

戦国時代に島津家と伊東家の油津港、飫肥城を巡る15年に渡る戦場となり

ポーツマスの小村寿太郎を産み

西郷隆盛の西南の役後半では砲煙に包まれ

人間魚雷の訓練基地になる。


いくつかの歴史の沸点、あくまでこの街のなかだけだろうが、を経験して今に至った。

しかし、この非連続的な沸点は二の次で、街は神話に回帰し、「古事記編纂1300年」の文字が至るところに踊っていた。

果たして、この「1300年」がどれだけ印象を与えているかわからないが、この街は、綿々とつながる歴史に目をつぶっている。


新しいものは産み出さない。

先人の偉業に拠る。

それが、この街のベクトルなのかもしれない。

それが、何を意味するか。

「古事記編纂1300年」に意義を見いだし、説明できる地元民は何人いるのだろうか?

この「1300」が、重くこの街にのしかかっていないだろうか。


私は、あらためてこの街を見たとき、あまりにこの街を知らない自分に痛感した。

「1300」という途方もない数字は要らないのだ。

海、がある。

どこにも負けない海、が。

現に、海辺の道の駅は大盛況していた。

私たちの生活に当たり前のようにあった海は様々なモノを産み出していたのだ。

これは、相模原にも言えないだろうか。

我々の生活に当たり前のようにあるモノが、他の地区から見れば人を魅了するモノになる。

それに、気づくか否かである。

何てことはない。

飲み会の席で、自分の故郷自慢をする。

それだけでも、立派な「観光PR」である。

当然、そこには正しい知識が必要である。

私には、「1300年」を語れない。

しかし、宝石の様な海は語れる。

なにゆえ「1300」なのかを、地元の人間が理解していなくては、語れない。人を引き付ける意義を与えなくてはならない。そして、その意義を共通理念としなくてはならないのだ。


宮崎は、「観光」というものを柱としながら、依存してきた感がある。

有名なタレント知事がいい例で、最終的に彼が何を残したか。

何も残していない。残ったのは「昔は知事で有名だった」という苦笑いだ。

観光とは、その土地に寝起きする人々、遺伝子や記憶に街が組み込まれている人々が担うものではないか。

他の土地の人間が入ってきては産み出せない時間の連続的な産業なのである。


地元の人間が、立ち止まり辺りを見回した時に、そこに観光の種はある。

強引に前に進め、お題目を与える。

それでは、観光は進まない。

それは、相模原も同じである。